「棗の木」に感謝

内田百間の随筆を読む。たしかにこのことも現実から逃れるための入口であるに違いない。第七文集の『随筆新雨』を読み終えた。
百鬼園先生の文集については、旺文社文庫版を古いほうから読んでいくことをつづけている。いま調べると、第五文集『凸凹道』のことを2006年11月9日に書いてから(→2006/11/9条)、そのあとの第六文集『有頂天』の記事を欠く。おそらく一昨年から昨年にかけて、ここをおろそかにしていたときにでも読んだのだろう。
『有頂天』を読んだはずというのは、理由がある。百鬼園先生の文庫本を読み終え、わが書棚の「百鬼園コーナー」に戻すとき、次の冊を少しだけ頭出ししておくからだ。百鬼園先生の随筆集は、そうでもしておかないと、どれを読んだのだったか混乱してしまうのである。このあいだまで頭出しされていたのが、その『随筆新雨』であり、とにかく百鬼園先生の文章にひたることで、この忙しなさから解放されたいとしたのだった。

何度か読んだ記憶があるものもあれば、「読んだはず」とおぼろげに頭に残っているものもある。前者でいえば「二銭紀」がある。十代の内田栄造少年が、高等学校受験を済ませた夏、比叡山で開かれた夏期大学に参加したときの顛末を記した回想録。世間知らずのおぼっちゃんが見栄を張って宿屋に法外なチップを与えてしまい、そのために帰りの電車賃がなくなるというおかしくも哀しいエピソードが心に残る。
比較的長い文章として、『冥途』や『東京日記』の系譜につらなる幻想小説「青炎抄」がある。むかしのわたしならこの一篇を好んだのだろうが、いまのわたしの心にはいまひとつ響いてくるものがない。同じような長い文章「棗の木」のほうが、よほど印象深く心に刻まれる。大学教師の職を辞すきっかけになった高利貸しとの奇妙な因縁をふりかえった物語だ。
関東大震災百鬼園先生は大正の大地震と書く)のとき、教え子長野初の住む石原町を訪れた百鬼園先生*1は、近くに高利貸しの家もあったことを思い出し、そこを訪れてみると、どこに家があったのかわからぬほどの焼け野原となっていた。
何となく安心した百鬼園先生だが、その後高利貸しから無事息災でいるとの葉書が届く。そこで転居先を訪ねてゆくと、さすがに高利貸しは鋭い。なぜ先生はそこに行ったのか、震災後自分の家があるかどうか確かめにきた顧客が数人いるからと笑うのである。このあたりの緊張感あふれる二人の関係が見事に文章に移されている。
なぜ高利貸しとの関係を綴った随筆が「棗の木」という題なのか。冒頭の一文が、「庭に一本棗の木がある。障子に嵌めた硝子越しに見える寒寒とした日向を受けて、枝も幹も丸裸の荒い影を、向うの板塀の裏側に落してゐる」という描写によっているのだろうかと思っていたところ、巻末の平山三郎さんの解題で、日露戦争時の乃木・ステッセルによる「水師営の会見」にちなんでいることを知った。
軍歌「水師営の会見」の歌詞「庭に一本棗の木/弾丸あとも著く/崩れ残れる民屋に/今ぞ相見る二将軍」にちなみ、「昨日の敵は今日の友」ということで、百鬼園先生は高利貸しとの関係を乃木・ステッセル二人の関係に擬したようなのである。平山さんは、このタイトルには著者の苦心のあとがあると書かれているが、でもたしかに憎んでも憎みきれないはずの高利貸しなのに、その憎しみが露骨に表面に出ないで、逆にやわらかなまなざしで過去のできごとを思い出しているさまが美しい。
いずれにしても平山さんが解題で書いてくれなければ、「棗の木」という題の由来を知らずに終わったわけで、感謝しなければならない。「棗の木」に思いを馳せることで、心のゆとりができたことにも感謝である。

*1:この様子を書いたのが、わたしの大好きな一篇「長春香」だ。