閑雅になりたい

昨年自分にしては大きな仕事をひとつやり遂げたのだが、事態はいっこうに改善の気配がみられない。あいかわらずせわしなく、年末年始もゆっくり骨休めどころではなかった。何でも引き受ける自分が悪いのだが、今月それぞれ別のテーマで研究報告を三つこなさなければならないのである。
いわゆる雑用でないのがまだ救いで、これが雑用ばかりだったら、とうの昔に精神が壊れてしまっていたかもしれない。
とはいえ、時間的余裕がまったくないというわけではないのだ。仕事や研究とは無関係な時間をけっこう無駄に過ごしており、あとから後悔するのである。時間的余裕から精神的余裕を生みだすことができず、あくせくと立ち働いてただ時間が過ぎてゆく。
年末年始に帰省したとき、雪降りのなか気晴らしに立ち寄ったブックオフで、庄野潤三さんの単行本『鳥の水浴び』講談社)を見つけた。老夫婦物の一冊だが、たしか文庫に入っていなかったはずだ。文庫に入っていたり、既読であってもやむをえまい、そんな気持ちで購った。帰省先ではネット環境がないため、東京に戻ってから確かめたところ、予測どおり、未文庫化・未所持の一冊だったので満足した。
昨年9月に庄野さんの訃報を知ったとき、老夫婦物をしばらく読んでいないことを思い起こし、今後その続きが読めなくなることを残念に思った。『鳥の水浴び』を手に入れたときまず頭に浮かんだのは、庄野さんの老夫婦物を読めるときこそ、わが身が精神的余裕のある状態なのだろうな、ということだった。だから結果的に遺作となった『ワシントンのうた』も途中まで読んだところでそのままになっている。
さらに講談社文芸文庫の新刊として、エッセイ集『野菜讃歌』が出た。老夫婦物の隙間を埋めるような内容の本だ。さっそく買い求めはしたものの、当然読むには至っていない。
さいわい、今度の春頃、住環境の変化が予定されているので、そのときにいまある本を整理して、庄野さんの単行本・文庫本をまとめて書棚に並べることができるだろう。そのあと、『鳥の水浴び』『野菜賛歌』を含め、じっくりと庄野文学を味わう時間を持ちたい。
『野菜讃歌』と一緒に買ったのが、和田誠さんの『東京見物』だ。和田さんが子供の頃親しんだ「講談社の絵本」のうちの一冊『東京見物』を復刻し、それを和田さん自身がパロディ化して、2010年の“東京見物”を同じ体裁で描きあげ、復刻版と函入セットにして売るという遊び心に富んだ企画。昭和12年の『東京見物』と平成22年の『東京見物』、74年を隔ててふたつの絵本を見くらべながら読む。そこに何とか精神的余裕を見いだそうという涙ぐましい努力である。
精神的余裕をもちたい。閑雅になりたい。そのためには、文章のリズムに酔いながら、自分自身の体験のみならず、読んだ文章の中味とはまったく関係のない想念も浮かんでくるような、心にゆとりをもてる素敵な文章の手助けが必要だ。
その意味では堀江敏幸さんの本などうってつけなのだが、昨年来、ぽつぽつと読み始めた『アイロンと朝の詩人 回送電車?』中央公論新社)が読み終わらないのは、どうしたわけだろう。そもそも2年前に出た新刊をようやく読み始めたというのは、堀江ファンと名乗ることもおこがましいゆゆしきことであるし、すいすいと読書がはかどらないのも、これまで経験したことのない非常事態であるに違いない。
だからあえて、読みさしのままであった『アイロンと朝の詩人』を手にとって、本を開いてみる。「刑事コロンボ」の細部にこだわる「終わらない序曲」のなかで回想される1970年代末のオーディオブームという言葉に、たしかにわたしもその頃、オーディオ雑誌やFM雑誌を購って、そのなかにきらびやかに並んでいる各社の広告に見入ったものだったと懐旧の念を抱き、また古本屋で偶然見つけた署名入本を安価で手に入れるいきさつを記した「プルーストへの感謝」では、なまじのミステリを読んだとき以上のスリル感を味わったりと、やはり堀江さんの世界に沈潜するのは精神衛生上とても大切なことだと痛感したのである。
鳥の水浴び野菜讃歌 (講談社文芸文庫)東京見物アイロンと朝の詩人―回送電車〈3〉