藤田嗣治と偏愛の物たち

縁あって、しばらく秋田の町を訪れる機会がつづきそうである。先日も秋田に出張し、夜はきりたんぽ鍋やハタハタ、いぶりがっこなどの郷土料理を堪能してきた。隣県山形出身の人間として、秋田にはライバル心をもっていたのだが、横手の町と縁ができて以来、すっかり秋田県は馴染みになってライバル心は消え、県庁所在地秋田の町も大好きになってしまった。
秋田が好きになったのは食べ物がうまいというだけではない。藤田嗣治の作品が常に身近にあるということが心を豊かにさせてくれるのである。先日の出張では、フジタ作品を多く収蔵する平野政吉美術館を訪れる時間的余裕がなかったけれども、またいずれ訪れることができるだろうと思うと、ちょっとした幸福感に包まれる。
このたび出た林洋子さんの藤田嗣治 手しごとの家』集英社新書ヴィジュアル版)を読み、カラー図版としてたくさん収められているフジタの絵を見ると、つくづく自分はフジタ作品が好きだと再認識した。
フジタ作品のどこがいいのか。乳白色の下地につるつるしたマティエール(逆にわたしは長谷川利行のような絵の具をこんもり盛り上げたごつごつしたマティエールも大好きだ)もさることながら、絵の中に描きこまれた風景や物が、これでもかという細かさで表現されていることに惹かれるのだと思う。
藤田嗣治は長らく神話に包まれていた。芸術の都パリで認められた初めての日本人画家。画業だけでなく、おかっぱの髪型と奇矯なふるまいで自らを粉飾し、売りこもうとする世俗性。そして戦場を描いた大作を描いたために終戦後は戦争協力者という批判にさらされ、ふたたびパリに渡って日本に戻ることはなかった。
林さんは、そんなフジタの一面的通俗的な理解から最近ようやく脱却しつつあると論じている。

今や生前のエピソードや人物評からいったん距離を置いて、冷静に業績=彼が遺した「作品」そのものに向きあう機運が、美術家を含めた若い層の間で進んでいるように思います。(4-5頁)
こうした機運は、2000年前後からのものだということに驚く。先年の回顧展は、あのような大規模なものとしては初めてだということも意外だった。たしかにわたしも、あの回顧展で多くのフジタ作品を目の当たりにして、大好きになったのである。
林さんは本書のなかで、作品はもちろんのこと、フジタ終焉の地となったフランスのパリ南郊ヴィリエ=ル=バクルにいまも残され、一般公開されているアトリエ兼邸宅「メゾン=アトリエ・フジタ」になお残る遺品にまなざしを向ける。
そこにあるテーブルや扉などの家具、食器や額などの物に注目して、これらがフジタによる「手しごと」「手づくり」の痕跡を残すものとして、アーティスト藤田嗣治の制作の現場、発想の原点に肉迫しようと試みる。
たしかにフジタの絵にはオブジェがあふれている。それら皆が、画面のなかに必然的にそこにあるべき物として、動かしがたく配置されている。これらの物ひとつひとつに注目すれば、ほとんどが画家の身近にあって、彼が偏愛した物たちであることがわかる。
林さんは、「メゾン=アトリエ・フジタ」にある遺品や、数多く残されているフジタの肖像写真の背景に偶然写しこまれた物たちに着目して、これらがフジタ作品のあちこちに登場していることを明らかにする。逆に言えば、フジタ作品に描かれたオブジェが画家の手もとにあって愛用され、いまなお伝わっているのである。そしてこれらのオブジェは、自ら蚤の市などで見つけ出してきたり、自分でこしらえたものであったことが丁寧な記述によって解き明かされる。
画家というよりも職人的な手仕事の様子を教わり、新たなフジタ作品の見方を得たわけで、さて次の秋田行きが楽しみだと思わずにはいられない。
それにしても、本書が含まれた「集英社新書ヴィジュアル版」のシリーズは素晴らしい。小松和彦さんの『百鬼夜行絵巻の謎』や、辻惟雄さんの『奇想の江戸挿絵』など、読んでも見ても楽しめる本が多いから、このシリーズで出た本ならまず安心という信頼感が生まれるのである。
藤田嗣治 手しごとの家 <ヴィジュアル版> (集英社新書)