明治の人が五代目に求めたもの

現代の歌舞伎役者を錦絵(風)に描いたものを見たことがある。役者の顔を知っているからか、けっこう似ているものだなあというのが第一印象だった。役者錦絵というものは、雰囲気だけ伝えれば、似ているか似ていないかは二の次だろうと根拠もなく思っていたので、認識があらたまった。
いまの役者さんのなかで錦絵映えするのは誰だろう。やはり最初に浮かぶのが芝翫さんか。しょうゆ顔・ソース顔といった現代人の顔分類とは一線を画した大きな頭に、一目見たら忘れられない顔立ち。逆に玉三郎はあまりに整いすぎて錦絵にしにくいのではあるまいか。
素顔が特徴的だから、歌舞伎狂言のどの役に扮しても芝翫以外にはありえない。役柄より芝翫という役者の存在感が前面に出てきてしまう。しかし舞台を観ると役にとけ込んでおり、違和感がなくなる。「盛綱陣屋」の老婆微妙から「吃又」のおとくまで。実に素晴らしい。
こうした錦絵映えする役者の身体性が消えてゆく節目はいつごろなのか。少なくとも明治の「團菊左」は錦絵映えしたはずだ。とりわけ九代目團十郎と五代目菊五郎。あの二人の馬面ともいうべき巨大な顔は一度見たら忘れられない。そしてこの二人がいまも演じられている歌舞伎の有名狂言を演じて素晴らしい名優だったというのが、にわかに信じられないのである。
たとえば五代目菊五郎。とくに世話物に長じていたという菊五郎の舞台写真を見るかぎり、どの写真を見ても菊五郎以外の何者でない。写真という動かない媒体からは、江戸っ子の気っぷの良さが伝わってこない。
しかしその舞台は真に迫り、菊五郎以外の何者でもないことは変わらぬながら、演じる対象に同化したリアリズムを観客に伝えたという。矢内賢二さんの新著『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎白水社)は、そんな五代目の姿をあらためて明治の時代のなかにおいて捉えなおす面白い本だった。
そもそも歌舞伎は江戸の現代劇という側面があった。明治においても本質は変わらない。人目を惹く事件がすぐに劇化され、好奇心旺盛な庶民に迎えられた。明治でいえば高橋お伝や花井お梅といった“悪女”、そして外国からやってきたサーカス(チャリネ)や風船乗り。風俗としては髷物から「散切物」へ。
しかしあまりに時代につきすぎると、その時代が過ぎたあと忘れ去られてしまう運命にある。演劇としての価値はなくなり、史料としての価値が燃えかすのように残るのみ。あるいは史劇としては残っても、風俗生活を伝える部分は顧みられなくなる。個人的には、散切物で思い出すのは「筆屋幸兵衛」(「水天宮利生深川」)だ。渡辺保『新版歌舞伎手帖』*1講談社)によると、明治18年黙阿弥作、五代目菊五郎のために書かれた作品である。
時代につきすぎて今では忘れられた「いかにも明治的」な歌舞伎作品。こうした「キワモノ」を追いかけると、たいてい五代目菊五郎につきあたると矢内さんは言う。新し物好きで好奇心旺盛、何事も凝らずにはすまない五代目は、お伝やお梅、チャリネのアクロバットから風船乗りまで、時代を象徴するキャラクターを次々に演じ、観る人たちの喝采を浴びたという。
しかしこうした進取の気性は「劇通」と呼ばれる歌舞伎好きには好まれなかった。大衆受けするものはたいてい通受けしない。古典芸能化した現在の歌舞伎の世界においても、古典歌舞伎の継承者、現在古典化している世話物の第一人者としての五代目を尊崇するいっぽうで、キワモノを演じた五代目は無視される。
矢内さんの本を読むと、こうしたキワモノを演じる側面こそが五代目の本質とは言えないまでも、五代目という役者の大事な一面であったことがわかる。明治という現代を歌舞伎に映そうとした五代目の姿は、端から見れば酔狂と思えるほどのめり込んだものだった。これを努力と言わずして何と言おう。
本書にたくさん掲載されている五代目の写真は、それらキワモノを演じたさいの舞台写真であり、外国人から戊辰戦争の軍人、悪女から噺家まで、さながら五代目のコスプレを見ているようで楽しい。明治の人たちもそんな気分で、世間の話題を歌舞伎で演じる五代目を見ていたのかもしれない。
本書で紹介されているキワモノのなかでも、現代に演じてなお面白い狂言があるように思える。戦後になっても再演されたという「富士額男女繁山」や「木間星箱根鹿笛」がそうである。著者の矢内さんは現在国立劇場に勤務されているそうなので、ぜひともこれら五代目の散切物を復活上演していただきたいものである。
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