「ごてる」と「ごねる」

昨年の晩秋だったか、ある会合に顔を出すため仙台を訪れたとき、東北大学片平キャンパスの北門前にある古本屋熊谷書店で、久保田万太郎全集』第12巻(中央公論社)を800円で購った。「随筆三」の巻である。熊谷書店には他に数冊、万太郎全集の端本があったが、いずれも随筆の巻だった。お金もなし、また日帰りだったので荷物にもなる。一冊に絞ろうと散々迷って第12巻にしたのだが、おかげで会合に少し遅刻してしまったことを思い出した。
第12巻を選んだのは、「雑記」「かまくら雑記」のような連作エッセイに惹かれたゆえだが、巻末にある編者戸板康二さんの「あとがき」は、これら短い連作エッセイを「先生の俳句と同じやうに、短くはあつても端的に、それが書かれた時にふれ折にふれて、先生の生活を反映してゐる、その意味で貴重な、久保田万太郎研究資料である」と書いている。
たまたまこの巻は積ん読山の一番上にあり、目に入ったので、興に乗って函から取り出し、つれづれに拾い読みをはじめた。表紙を開き、この巻の口絵写真を見てまず驚く。見慣れた湯島天神男坂が写っていたからだ。
いや、「見慣れた」というのは必ずしも正確ではない。最初見たとき「ん?」とひっかかり、数秒凝視してようやくそこが男坂であることに気づいたのだ。というのも、今の男坂には、急な階段の左右と真ん中に手すりが取り付けられているが、写真の男坂にはそうしたものがまったくない、ただ階段があって登り切った先に鳥居が見える殺風景なものだったからである。
もっとも階段の左右両端には、かつて手すりが設置されていたとおぼしき穴が見える。戦争で供出でもされたのかしらん。申し遅れたが写真は昭和28年とあり、短躯の万太郎が下から五段目真ん中向かってやや右寄りに立ち、身体を南(右)に向けている。
万太郎は一時期湯島女坂下に住んでいた。いまもその家は残っていて、視線の先にはその家があるのだろう。そこで戸板さんの評伝『久保田万太郎*1(文春文庫)巻末の年譜を繰ると、鎌倉から湯島の家に越したのは昭和30年6月とある。それではこの写真はまったくの偶然なのか、それとも東京で住む家を探しにきたときの写真なのか、説明がないからわからない。
さて、第12巻に収められたエッセイのまとまり「雑談抄」のなかに、「“ごてる”と“ごねる”」と題した一篇が収められている。河上徹太郎との雑談で、このごろの若い人は(この随筆は昭和34年発表)「氷小豆」を「こおりこまめ」、「生蕎麦」を「なまそば」と読むのだと教わったと苦々しげに書いている。
そして文学・演劇に関係する誤読をいくつか指摘して、「“魔風恋風”(まかぜこいかぜ)を(まふうれんぷう)とよむ手合を許していゝといふ法はない」と厳しい。『魔風恋風』は持っていないが、岩波文庫に入っていることを思い出す。わたしも(まふうれんぷう)だと勘違いしていた。
さらに続けて、次のような誤読を指摘して随筆をしめくくっている。

それにしても堂々たる新聞記事に、“ごてる”と“ごねる”とがまちがつて使はれるのはみッともなさすぎる。“ごてる”こそ芝居道で、ぐづ/\うるさいことをいふ相手に対して適用するかくし言葉で、“ごねる”といつたのでは“死ぬ”といふことにしかならないのだ。
この一節を目にして驚いたのは、最近読んだ本でも同じ指摘を目にしたからである。山本夏彦さんのエッセイ集『冷暖房ナシ』*2(文春文庫)がそれ。このなかに収められている「「都新聞」回顧」のなかで、こんな一節がある。
都新聞回顧はこれで終る。戦後の東京新聞の全盛時代は、都新聞のそれとは少し違う。ただ言葉を大事にする伝統は昭和三十年代もまだ残っていて、大阪では知らず東京ではゴネるは死ぬことで四ぬるというのを嫌って五ねるといった。したがって何事にも文句を言うのはゴテるであってゴネるではない。新派の花柳章太郎の師匠喜多村緑郎は、文句ばかり言うので都新聞では「ゴテ緑」とあだ名した。その張本人である都新聞がゴネると書くのはいかにもしのびないから、原稿にゴネるとあっても悉くゴテると改めた一時期がある。当時の文化部長土方正巳の仕業だという。私も私の雑誌「室内」で、「出れる」「出れない」「見れる」「見れない」と原稿にあっても、ひそかに出られる見られると直して何食わぬ顔をしていた時期がある。だからははあやってるなと思ったが、むろん衆寡は敵しない。みなさんゴネ得と書くようになったので東京新聞は渋々従うようになったが、いかにも都新聞の後身らしいと思ったことがある。(252-53頁)
一度読んだだけでは身につかない事柄も、まったく別の場所で偶然出会えば憶えるというものである。「ごてる」と「ごねる」。新聞がらみ、芝居がらみで触れられている点共通性がある。たぶんその世界では有名な誤用で、あるいは高島俊男さんあたりも書いているかもしれない。
ためしに『日本国語大辞典 第二版』を引いてみる。「ごねる」には、「死ぬ。死去する。くたばる。」が第一、「ぶつぶつ不平を言う。文句をならべたてる。すねる。また、相手の要請などに対し、なかなか承服しないであれこれ注文を出してねばる」を第三に挙げ、補注として現代語では第三の意で用いられるがこれは「ごてる」との「混用であるものと思われる」と記す。断定せず慎重な書き方だ。
ちなみに「ごてる」は「ぐずぐずと不平不満を言う。ごてごてとめんどうなことを言いたてる。」が第一、「もめる。紛糾する。」が第二で、こちらではとくに補注はない。ただいずれも用例は昭和に入ってのものなのである。「ごねる」の第三の誤用で挙げられている用例とほとんど年代に開きがない。
たしかに「ごねる」は本来「ごてる」が正しいのかもしれないが、「ごてる」自体はそれほど古い言葉ではないということになるのだろうか。そうなると、山本夏彦さんが挙げている都新聞の「ゴテ緑」は「ごてる」の用例として古いほうに属するのだろうか。