第10 山と川のある町ふたたび

山と川のある町

先月出張で熊本をおとずれた。当地でお世話になる方々と夜に飲む約束をして待ち合わせ場所になったのが、熊本で有名な古書店舒文堂河島書店だった。いや、正確にいえば、当地の方と連絡を取った同僚についていったらそこが河島書店で、先方もそこにいらしたのである。
名にし負う熊本の古書店で心躍った。けれどもわたしたちが先に着いてまもなく先方も到着したので、書店のなかをじっくり見ることは叶わなかった。それでも店頭本に収穫があったのは幸いだった。石坂洋次郎の文庫本『山と川のある町』新潮文庫)一冊、100円なり。以前触れたように、石坂が一時教師として住んだ横手の町が舞台とされている(→2008/8/2条)。
そして今回、横手出張の機会を得た。たぶん仕事でおとずれるのは最後になるだろう。出不精のわたしのこと、自主的にやってくることはあまり考えられない。さいわい前泊の日程であるのをいいことに、まだ陽の高いうちに横手に入り、ゆっくり城下町を散歩しようと思った。ポケットに『山と川のある町』の文庫本をしのばせて。
新幹線のなかで『山と川のある町』にざっと目を通したのだが、「山と川のある町」というタイトルのわりに、「山と川のある町」が表に出てこない。空間的な喚起力に欠けている。強引にまとめれば、物語は、その町に住む青年少女たちとその親の世代の恋愛観をめぐる相克、といったところか。
そもそも舞台は特定されていない。抽象的に、「北国のK町」となっている。具体的な風景描写はほとんどない。わたしは石坂作品全般にそれほど馴染みがないが、石坂作品はたいがいこうした色合いなのかもしれない。自然のなかで物語が展開しても、舞台はあくまで「田舎」という抽象的観念であって、空間が人間より出しゃばることはない。
いまふりかえれば、横手の町でロケされた映画「山と川のある町」を観たときも、それがたんに横手でロケされたという事実があるだけで、映像に横手の風景を残しておこうという意志は感じられなかった。これは原作がそうであるゆえなのだ。いまのわたしは、どちらかといえば空間が特定できるような臨場感のある小説(および映画)が好きだから、残念ながら『山と川のある町』は期待はずれだった。
むしろ現実の「山と川のある町」横手のほうがずっといい。駅前にあった総合病院は前回訪れたとき閉院してしまっていたが、今回は建物が取り壊され、更地になってしまっていた。駅の反対側の再開発が進んでいるらしい。反対側、つまりかつての中心部の逆、「駅裏」だった方面には国道バイパスがとおり、郊外型の大店舗が連なっているから、賑やかさではとうに逆転現象がおきていたのである。
だからこそ閑かでひなびた古い町が好ましい。古い城下町とお城を隔てる横手川の流れは、雪解け水の影響かかなり早く、ザアザアと音を立てながら流れてゆく。東京ではとうに散った桜は、まだ七分咲きといった程度。一面雪をかぶって真っ白な鳥海山のなだらかな稜線が東に見える。

あと半月くらいたてば、田んぼには水が張られ、田植えが始まるだろう。苗の緑がまだ目立たず、一面水の景色となるこの時期の東北地方は実に美しい。田んぼは湖のごとく鏡のごとく、青空をそっくり映している。だから天も地も青でおおわれるのだ。
今回は残念ながら「横手焼きそば」を食べることができなかった。「さらば横手」と言うにはあまりにもさびしい幕切れだが、そのかわり、かねがね食べたいと思っていた「納豆味噌ラーメン」を食べることができたのは嬉しい*1
厚みのある納豆食文化圏に育ったわたしのような山形人にとって、納豆汁があるから、そこに麺が入ったものという感じで美味しくいただけた。納豆食文化の後進地域に育った納豆好きの人にとっては、激賞に値するラーメンらしい。