短篇小説集の8月

8月もあっという間に終わってしまった。長男は夏休み最終日にしては珍しく余裕がある。前夜遅くまで宿題の水彩画をつきっきりで「指導」したためでもある。
子どもの頃は絵心というか、絵のセンスがまったくなく、下手くそな絵しか描けなかった。こういう技術的な面は今でも進歩していないだろう。ただ何十年も生きてきて、その間いろいろな絵を観てきたため、描き方だけはわかるつもりになっている。自分で描けばきっと惨憺たるものができあがるに違いないから、実践には至っていない。
さて8月は短篇小説集を集中的に読んでみようと思い立った。新刊や積ん読本の短篇集を続けざまに読んだつもりでいたけれど、いまふりかえればたった3冊しか読んでいない。
燃えた指―近い昔のミステリー (徳間文庫)佐野洋さんの『燃えた指』(徳間文庫)。「近い昔のミステリー」という副題がついている。高校の生徒たちが、近所に住むお年寄りの体験談、回顧譚を聴くというサークル「敬老談話会」を結成した。物語の狂言回し的役割は、彼らの学校の教師で、「敬老談話会」の顧問を引き受けた若い女性教師。
十代の子どもたちに対して、七十八十になるお年寄りが昔語りをするなかに、いろいろな謎が絡んできて、解きほぐされてゆく。とくに犯罪ミステリというわけでもでなく、日常的ミステリの範疇に入る作品だ。さすが洗練されていて、佐野さんの連作は読み進めるほどに味わいが増す。
たまらん坂 武蔵野短篇集 (講談社文芸文庫)黒井千次さんのたまらん坂講談社文芸文庫)。こちらは「武蔵野短篇集」の副題がある。表題作「たまらん坂」をはじめ、「おたかの道」「せんげん山」「そうろう泉園」「のびどめ用水」「けやき通り」「たかはた不動」といった、武蔵野に実在するスポットにまつわる物語。れっきとした漢字による地名があるのにもかかわらず、こうしてひらがなで表記しなおされた時点で、いかにも黒井さん的な、日常からズレた世界にはまり込む感じになる。
このなかでは表題作の「たまらん坂」に惹かれる。国立から国分寺に向かって緩やかに登ってゆく坂道。なぜここが「たまらん坂」と名づけられたのか。主人公があれこれ調べてその由来を確かめようとするブッキッシュな短篇でもある。山口瞳さんの絵を観るため、国立にあるギャラリー・エソラを訪ねたとき、たしかに国分寺方面に登ってゆく坂道が前方にあった。そんな記憶もあって、今度国立を訪れたときにはぜひたまらん坂を登ってみたい、そんな気持ちにさせられる。
みぞれ (角川文庫)重松清さんの『みぞれ』(角川文庫)。前世紀の1999年から2007年という広いスパンで各媒体に発表された短篇を編集した文庫オリジナル短篇集。2000年に発表された「拝啓ノストラダムス様」を読むと、映画「20世紀少年」ではないけれど、1999年にこの世が終わるという終末観を植え付けられた子どもの気持ちに共感してしまう。作者自身の年齢世代が直面する家族の物語に惹かれ、重松清という作家を好きになったわたしとしては、表題作「みぞれ」に胸を熱くする。子どものいない夫婦をテーマにした「石の女」や「ひとしずく」は、いかにも現代的家族の一面を鋭く表現した作品だ。
ひげのある男たち (創元推理文庫)以上短篇集はこの三冊。ほかにもう三冊。復刊された長篇ミステリ、結城昌治さんの『ひげのある男たち』創元推理文庫)。今月も初めの頃に読んだため、内容を忘れかけている。
飛びっきり不可解な謎が切れ味鋭く解決されるというわけではなく、奇抜などんでん返しがあるわけでもないのだが、師と慕う福永武彦の作品を連想させるような、とびきり洒落たミステリだな、というのがいまなお頭の隅に残っている本作の印象だ。冒頭ひとくさり繰りひろげられる「鬚学」講義は、メルヴィルの『白鯨』なのかもしれないが(未読なので比べられない)、結城さんが愛した落語のマクラの趣向を借りてきたのかもしれない。
ひなた (光文社文庫)吉田修一さんの『ひなた』光文社文庫)。吉田さんの作品を読むのは初めて。以前聴いた川本三郎さんの講演会で、吉田さんの『悪人』を絶賛されていたのが耳に残っている。『悪人』そのものを買わず、たまたま新刊で出た本作を購入してみた。
一つ屋根の下に住むことになった兄夫婦と、血のつながらない弟とその恋人。若い男女四人それぞれの視点で、春夏秋冬一年間の日常生活が描かれる。わたしはこんな趣向の小説が大好きだから購ったということもあるのだが、日常生活にしてはあまりにも日常から離れている仕事や私生活を繰りひろげる登場人物たちについていけなかった。吉田作品の最初がこれというのは、不幸だったのか。
坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ最後に小説以外の本。坂東三津五郎さんの坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』長谷部浩編、岩波書店)。当代三津五郎さんの語りを長谷部さんが編んだという形式の本、歌舞伎役者が現在の歌舞伎を語った本としてだけでなく、歌舞伎に関する本として、久しぶりに面白く、興奮しながら読んだ本だった。藝や型がどのようにして教えられ、どのようにして次代に受け渡されてゆくのか、踊りの要諦とは何か。歌舞伎や古典芸能を現代人にわかりやすく説明するための譬え方が絶妙。
たとえば豊後節浄瑠璃の一派である清元と常磐津の違い。

常磐津と清元は、おおもとが一緒ですから、似てはいるけれど、やはり味わいが違います。たとえば、常磐津は清元とくらべると、ちょっと飄逸味が強く、しかも男っぽいものなのですよ。常磐津地の名舞踊に、『関の扉』や『戻駕』がありますが、力強くて、ちょっと土着の匂いがします。スープにたとえると清元は、澄んだコンソメスープみたいなものですが、常磐津はもう少し具が入っている味の濃いクラムチャウダーのような感じがします。(39-40頁)
なるほどこういうふうに説明されると違いがわかってくる。大正昭和の代表的歌舞伎役者である六代目菊五郎や初代吉右衛門に伍して、踊りの神様と言われた曾祖父七代目三津五郎や、学者的役者だった祖父八代目、團十郎幸四郎松緑兄弟や勘三郎歌右衛門といった名優たちの下で、地味だが堅実な役柄を演じてきた印象がある(実際観たこともある)父九代目という、歌舞伎役者の家系のなかでけっこう面白い立ち位置にある大和屋だから、その立場での歌舞伎界の今昔語りは彫りが深くて心に残る。
踊りの名手であることは言うまでもなく、上背がないながらも荒事の迫力は柄が大きく、世話物にも通じる。勉強熱心で進取の気性にも富む。あとからふりかえれば、「同じ時代に生きてよかった」と思える歌舞伎役者の随一に挙げられることになるかもしれない。しばらく歌舞伎見物から遠ざかっているが、そろそろ復帰しようかしらんと気持ちが動いた。