もうひとつの岡山本

『岡山の内田百間』は、著者岡さんによる詳細な手書き地図が古京町を訪れるための道案内になりそうだったので、読了していたが携行した。『古里を思う』は現実に訪れ体感するであろう岡山の町と、百間が追想する古里の風景を重ね合わせるよすがにと、これも携えた。
旅中に読み、帰ってきてからは残りをそのまま電車本として読みつぐつもりで、もう一冊何を持っていこうか。そんな気持ちで書棚を眺めていて、何気なく手に取ったのが、野尻抱影の文庫本のうえに横置きしていた石田五郎天文台日記』(中公文庫BIBLIO)だった。
天文台日記 (中公文庫BIBLIO)めくって驚く。この石田さんの天文観測日記は、岡山県鴨方(現浅口市)にある観測所での暮しを綴ったものだったからだ。これから岡山に向かおうとしている身にとって、これほどぴったりの本はないだろう。偶然というのは面白く、ありがたい。本書も2004年に新刊で買い求めて以来読む機会をうかがいつつそのままになっていたもので、幸い絶好の読書機会を得た。
著者石田五郎さんの名前は、野尻抱影の文庫本の解説者として存じ上げていた。だから出たとき購ったわけだし、買った後は抱影の本と一緒に並べていたのである。観測天文学者としてのプロの石田さんは、アマチュア天文学の泰斗である文人野尻抱影を敬愛し、交誼を結んだ。抱影を「初代天文屋」と呼び、自らその屋号を継いで「二世天文屋」と号している(ちく文庫『星座のはなし』*1解説「「星座神話」の神話」)。
天文台日記』の舞台となった天文台は、1960年に設置された岡山天体物理観測所。もと東京大学の一部局である東京天文台附属の観測所で、その後大学を離れ大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台の観測所として現在も当地にある。国立天文台のホームページによれば、日本最大級の反射望遠鏡を備え、「晴天日数が四季を通じて多く、大気が安定しており、天体観測にとって国内の最適地として選ばれ」、鴨方に建てられたのだという。
そうした高性能の望遠鏡を備えているために、国内の他の観測所にはない「ヴィジター・システム」を採用しているという。望遠鏡を専属の観測員が占有するのではなく、全国各地の天文学者の利用希望を募り、それを調整して共同利用するというユニークな方法。石田さんは岡山に24年勤務し、利用希望の調整役にあたるなど「岡山の番頭」を自認する方で、それゆえ本書には、岡山に天体観測調査にやって来るたくさんのヴィジターとの暖かい交流が描かれている。
ヴィジターのない日は「セルフ・ヴィジター」として、夜一人静かに「自分の星」と向き合い、粘り強く観測を続ける。お腹がすくと地下に設けられた「深夜喫茶」に下りてゆき、夜食を作って素早く済ませる。望遠鏡の移動や、撮影のための露出調整、乾板への現像に至るまで自分一人で行ない、「ヨタロオ」と呼ぶうっかりミスをおかしてしまったら、その教訓をイロハがるた風にまとめて自戒とし、仲間にも注意を喚起する。
天文学の専門用語が次々と容赦なく出てくる。それゆえなかなか読み始めるきっかけがつかめなかったのだが、読んでみると、まあ知らなくてもだいたいのことはわかってくる。だいいち専門用語を知らなくても、ほかの部分の文章がすこぶる味わい深く惹かれるので、敷居の高さなど忘れてしまうのである。
天文学という角ばった言葉を使わないでも、星座の世界、星空の世界には、面白い名前の星や星座がある。無秩序に夜空に散らばっている星たちを、地上にある何か、神話に出てくる何かにあてはめて「星座」にまとめる。あるいは宇宙がかたちづくる現象を同じようにわたしたちが連想しやすいものにたとえる。
だから天文学者にはすぐれた言語感覚が求められるし、実際そういう人が多いようだ。本書を読んでいても、登場人物、つまりは天文学者の間での俗語や、仲間に対するあだ名などユニークなものが多く、ことば遊びを愉しんでいる風情も伝わってくる。
新しい恒星や彗星、宇宙現象を発見したというニュースがあると、新聞やテレビでは華々しく報道される。しかしその裏には、毎日毎日寝る間も食べる間も惜しんで夜空を眺め続ける孤独で根気強い作業があることを思い知らされる。孤独に星空と向き合うことにより、研ぎ澄まされた省察も生まれてくる。
年末休暇でヴィジターも職員もいない静かな観測所のなかで読み返したリルケの「マルテの手記」にある挿話から、一年という時間を秒に換算する。31556926秒。「これだけの秒数が、手ににぎりしめた「一握の砂」粒のように、指のあいだからサラサラと流れてゆくのだ」

この一年、いったい何をしたのだろう。いろいろなことが次つぎと起こったような気がする。そしてまた、けっきょくなにもしなかったような気もする。毎年、年末に近づくとこんな月並な反省が、胸をおしつける。宇宙のなかで、一年なんて、この「青い惑星」の公転のひとまわりにすぎない。とつぜん訪れたこの「静寂」が、なまけものの私を「センチメンタル」にさせるのだろうか。(251頁)
一年という時間は、宇宙の片隅にある青い惑星が一回転する時間に過ぎない。青い惑星をとりまく宇宙には、もっともっと、わたしたちが想像もできないような悠久の時が流れている。
かつてフジテレビで放映されたドラマ「白線流し」を時々妙に懐かしく思い出し、ひとり胸を熱くすることがある。スピッツの名曲「空も飛べるはず」のメロディや、ドラマの登場人物たちが演じる青春時代に自分もおぼえのある甘酸っぱさ、ドラマを観ていた頃の仙台での充実した暮しもさることながら、観測所で働くことを夢見る青年(長瀬智也)の存在をとおして、子どもの頃住んでいた田舎で、冬の澄んだ夜空に満天の星を眺め、それらの星の輝きが、何千年も何万年も昔のものであることを知って目まいをおぼえ、では今この時に星が放つ光が地球に届くとき、自分はどうなっているのか、いや、地球がどうなっているのかと考え不安で眠れなくなった思い出や、ギリシャ神話や星の本を熱心に読みながら星空を眺めた思い出が、現在の「星空を失った」生活との落差を強く意識させるということなのかもしれない。
たまに自分の専門とまったく違う分野の本を読むことは、強い刺激になる。とりわけ今回の石田さんの本は、そんな自分の星への思い出をふたたび思い起こさせてくれたこともあって、忘れられない一冊になりそうである。