第9 百鬼園先生の古里

岡山の内田百間

わたしにとって岡山とは、横溝正史の岡山であり、内田百間の岡山である。いままで新幹線で通過したことしかなかったが(といっても往復一度きりだが)、初めて岡山の町に足を踏み入れることができた。
今回は岡山市内に泊まったので、“横溝正史の岡山”は次回の楽しみにとっておくことにしよう。総社(『悪魔の手毬唄』)・津山(『八つ墓村』)など、やはり内陸部に行かなければ。その町の名前を聞くとなぜか山口瞳さんの『酔いどれ紀行』を思い出してしまう倉敷も、またのお楽しみ。
したがって今回は少なくとも“内田百間の岡山”だけはこの目に刻んでおきたい。お盆休みには、帰省先に岡山文庫の岡将男『岡山の内田百間*1を持参し、予習のためざっと通読する。しばらく前に買った本だが、ようやく出番が到来した。また福武文庫百間アンソロジーのうち『古里を思う』*2を書棚から取り出し、読み直す。この本は1991年の刊行。たしか発売時に買い求め読んだはずだから、それからもう17年も経つのか。百鬼園先生が懐かしみながら回想した古里岡山をようやくにして体感できる。
幸い自由になる時間が多少あったので、路面電車に乗って烏城(岡山城)と後楽園を目指す。話はそれるが、去年は富山、今年になって函館やこの岡山など、路面電車のある町を訪れる機会が重なった。路面電車は町中央部の空洞化を防ぐ大事な要素だと思う。
岡山城は戦災で焼失したため、烏城の由来であるささら子下見を黒塗りにした天守閣は戦後の再建だが、本丸・二の丸の石垣をはじめとする城郭の骨格は取り壊されず築城以来の姿を保っているから、なかなか見ごたえがある。
岡山城から、旭川をへだてて向かい側にある後楽園に向かう。百間の生まれた古京町は、さらに後楽園から旭川放水路をへだてた向こう岸にある。今回はとにかく古京町が第一目的なので、岡山城も後楽園も急ぎ足で通り抜ける。
後楽園は、これまで見た大名庭園のなかでも第一級の素晴らしさだった。広々と芝生が広がり、あいだを縫うように澄んだ曲水が流れて、池をつくっている。温泉場にある足湯のように、冷たい水に素足をひたすことができる、暑い夏にぴったりのユニークな亭舎「流店」や、田圃や茶畑など、起伏があまりない単調さをカバーし、逆に飽きさせない。正門近くに鶴舎があり、なかでは丹頂鶴が数羽ゆったりと暮らしている。
後楽園を出て蓬莱橋を渡り、夢二郷土美術館を横目に、旭川放水路の土手を南に下る。次に旭川に架かる橋である相生橋から土手を下った先に、古京町はある。

私は古京町の生れであって、古京町には後楽園がある。子供の時から朝は丹頂の鶴のけれい、けれいと鳴きわたる声で目をさました。尤も後楽園と町内の家並との間には田圃があって、家じゅうでお花見をした時後楽園の裏門まで俥に乗って行った記憶がある。その位離れているのだから、後楽園でなく焼き場か監獄署であったら、あすこは古京の町内だとは考えないかも知れない。(「古里を思う 後楽園」)
岡山を訪れる前、市内の地図を見ただけでは、この百間の文章は大げさすぎるのではないかと思っていた。でも実際川向こうに後楽園を眺めながら古京町に向かうと、決して誇張でないことを知るのである。
古京町の真ん中を江戸から続く街道が通っていたという。いまでは先のほうに国道二号線の太い幹線が通っているから、百間の生家造り酒屋の「志保屋」が面していた通りは旧国道ということになるのだろう。時間の流れに置き去りにされた古びた雰囲気が、逆に好ましい。生家跡には個人宅が建っているが、門の前に、東京上高田金剛寺のお墓にある句碑と同じ「木蓮や塀の外吹く俄風」の句が刻まれ、「件」をイメージしたのだろうか、牛のオブジェが鎮座した記念碑がある。
百間の随筆を読んで気になったのが、相生橋からさらにもう一つ下流に架かる京橋である。相生橋と京橋の間で旭川は三つの流れに分かれ、川の中に二つの中洲を作っている。二つの中洲は東中島町・西中島町といって、川を隔てているという地理的特性もあり、百間の時代には遊廓がそこに設けられていたのだという。川の東岸から西岸まで三又の川を渡るから、三つの橋を渡ることになる。東から小橋・中橋・京橋。この三つの橋を結ぶ道路には路面電車が通り、小橋のたもとに停車場がある。
中洲がそれと気づかれないほど宅地化・都市化してしまった東京(あるいは博多も中洲も同じか)と異なり、岡山旭川にある二つの中島はいまなお中洲そのままの雰囲気で、そこに普通に家が並んでいるからユニークだ。
大秀楼の横に路地があって、這入って行くと突き当たって右に折れる。すぐに又左に曲がって真直ぐに行けば、同じく遊廓の内ではあるが西中島より一段格の下がる東中島の通の端に出る。東中島は一枚鑑札の娼妓ばかりで、西中島には芸妓を兼ねた二枚鑑札がいる。(「六高土手」)
こうした遊廓としての格の違いが関係するのかわからないが、どちらかといえば西中島のほうに風情のある家並みが残っていた。小橋・中橋を経て京橋を渡った先の左手に、百間が老いてなお懐かしむ郷里の銘菓「大手饅頭」を売る伊部屋がある。
私は今でも大手饅頭の夢を見る。ついこないだの晩も同じ夢を見たばかりである。東京で年を取った半生の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。饅頭を食べるだけの夢でなく大手饅頭の店が気になるのである。店の土間の左側の奥に釜があって蒸籠からぷうぷう湯気を吹いている。右寄りの畳の上でほかほかの饅頭をもろぶたに列べている。記憶の底の一番古い値段は普通のが一つ二文で新式に云うと二厘であった。大きいのは五厘で、一銭のは飛んでもなく大きく皮が厚いから白い色をしている。それは多分葬式饅頭であったと思う。(「古里を思う 京橋の霜」)
大手饅頭伊部屋大手饅頭は現在63円。ひとくち大の小ぶりで上品な饅頭で、餡主体で白い皮が表面に少し散っている程度。いくつも食べられるものではないが、古里の象徴として恋い焦がれるに値する定番的な菓子の風情。家族の人数分に加え、味見のために一個だけ別に包んでもらう。一個だけでも丁寧に包んでくれるのが好ましい。入っていたリーフレットを『古里を思う』の栞がわりにする。
翌朝、宿泊したホテルの朝食バイキングにママカリが供されていたので飛びついた。しめ鯖やコハダといった酢でしめられた青魚が大好きなわたしにとって、ママカリは嬉しいご飯のおかずである。
ママカリと言えば、この食べ物の存在を初めて知ったのは、種村季弘さんの『食物漫遊記』*3ちくま文庫)だった。帰宅後さっそく見てみると、同書で触れられているのは岡山でなく尾道のそれだった。尾道出身の同級生石堂淑朗から招かれて駆けつけたところ、酒の入った浦山桐郎にからまれ、とうとう口にできなかった恨み節。
それはそうと、この一文「一品大盛りの味―尾道のママカリ」のひとつ前に、「絶対の探求―岡山の焼鳥」なる一文を見つけたのは、岡山帰り直後の身にとって不覚だった。ナニナニと読み直してみると、松山俊太郎に誘われて岡山におもむき、「日本一の焼鳥屋」を訪れようとしたものの、結局たどり着けなかった話だ。
焼鳥屋と言ったが、これは月並なシャモやカシワを食わせる店ではなくて、鶉、雉子、山鴫、雀、山鳩、雲雀、とありとあらゆる野鳥を軒先に吊して食べ頃の熟すのを待っている、本格的な野鳥料理屋である。
 敗戦直後に建てられたらしいバラック建ての内部が、柱といわず天井といわず、野鳥の脂と備長炭の煤でてかてかに黒光りしている。狭いお店なので、あふれた客が軒の外に片脚のかしいだテーブルを持ち出して、ビールを飲みながら気長に焼き上るのを待っている。ビールを飲みすぎたらそこは旭川の土手に面した草叢の一角にあるから、席を立って土手に登れば、川の流れに向って長々と放尿することもできるのである。
こういう店はとても一人では入りにくい。そもそも上の文章を書いた種村さんも行ったことはなく、聞書と断わっている。まぼろしの野鳥料理屋。旭川沿いということでは、中島にあっておかしくない雰囲気の店だが、あいにくそんな店構えは目に入らなかった。
百鬼園先生から種村さんまで、岡山の町をめぐって、見事にわたし好みの文章の間を遊歩できたことは嬉しい。