ドンゴロスの発見

小津ごのみ二月末から今月にかけ、出張やら何やらいろいろなことがわが身にふりかかり、ゆっくりする時間をとることができなかった。出張では、奈良(「鹿男あをによし」の重要な舞台が用務先だった)、名古屋(国際女子マラソンの日で、しかも用務先が7キロ地点。まだ先頭集団にいた高橋尚子を応援した)、横浜、京都とめまぐるしく、まだ来週仙台出張も残している。
この間少なかったとはいえ、本をまったく読んでいないわけではない。読み終えてすぐ感想を書く余裕がなく、そのうち出張などで時間があいてそのままになってしまう。これではいけない。
とにかくこの本を読んだという痕跡だけは残しておかないと、その時期自分がどんな心もちで暮らしていて、どんな本を読んでどんな考えを抱いたのかということが完全に記憶の奥底に沈んでしまい、浮上できなくなってしまう。あとで自らをふりかえる愉しみを残さなければならない。断片的なものにとどまってしまうけれど、ともかくこの間の読書の総浚いをしておきたい。
まず中野翠さんの新刊『小津ごのみ』*1筑摩書房)。小津映画を戦前のものから徹底的に観て、徹頭徹尾自分の好みの視点から掘り下げる極私的な小津論であるが、さすが中野さんだけあって、これまでの“男性的小津論”とは一線を画した内容となっていて面白い。
とにかく記号論的解釈を毛嫌いし、何かと性的な深読みをする従来の見方を疑い、自分の観たもの、自分の好みのアンテナに引っかかったものから小津作品に切り込む。
その結果は、たとえば冒頭の一篇「ドンゴロスと女のきもの」に顕著だ。小津が好んでタイトルバックに使った布生地、中野さんに言わせれば、「薄茶のザックリとした織りの布(たぶん麻)」。これを手芸材料店で売られているドンゴロスという名の布地であると指摘する。
「ドンゴロスの発見」。本書『小津ごのみ』はこの言葉に集約される。別に論じられていることはこれだけではないのだが、これまでほとんど誰も注目してこなかったような、タイトルバックの布地や、出演女優陣が着る和服のデザイン、洋服のパターン、インテリアの傾向などに“小津ごのみ”を見出すことで、まったく違った小津映画の世界が見えてくる。
笠智衆に代表される男たちの洋服の着こなしから、幼少時代の大人の男たちの定番スタイル(三つ揃いに帽子という「波平スタイル」)を連想し、そこへの愛着を語る。なぜそのスタイルに惹かれるのか。

私が波平スタイルに惹かれるのは、もしかすると、若い頃にはハイカラ趣味を楽しんで来たおやじという匂いを感じるせいかもしれない。あるいは戦前昭和の東京(いや、都会一般)に今よりもっと鋭く、深く、本格的な都会らしさや中流意識があったのではないかと夢想しているせいなのかもしれない。(「波平スタイルと笠智衆」)
また小津映画に家族愛を感じるのではなく、「無常」のドラマを読み取る。日本人の根本にある無常観の微妙な雰囲気を小津作品は見事に捉え、ゆえにいつまでも色褪せず人気を保ちつづける。
わたしも日常生活のなかで、小津映画がはらむこうした無常観を忘れないようにしているから、この指摘はよくわかり、心にしみこんでくる。とはいえ、自分の好みとしては、中野さんがあまりに生臭いドラマと疑問符をつける「東京暮色」が好きなのだから、小津安二郎という人物の真意をあまり理解できていないのだろう。
未見である戦前の小津作品はおろか、これまで観たことのある戦後の代表作群もいまいちど観直してみよう、そんな気にさせられる素敵な映画の本だった。