70年代空気の缶詰

唐獅子株式会社 (新潮文庫)小林信彦さんの『唐獅子株式会社』*1新潮文庫)を読み終えた。
任侠世界を舞台にしているということもあって、これまで敬遠気味にしていた本だった。古本屋でもよく見かけたけれども、いまひとつ買う気が起こらなかった。しかし、新潮文庫毎月の重版企画「おとなの時間」のなかで、改版(平成20年1月25日20刷)のうえ出されていたのに接し、買ってみるかという気になった。
そっそく読んでみると、さすがに面白い。面白すぎる。やはり読まず嫌いはいけないなあと反省する。読まず嫌いをなくす手段として、このような文庫重版(復刊)企画というのは必ずしも悪くない。というより、この機会をきっかけに買い、読んでみるという本がけっこう多い。
読者を引きずり込んで離さない上質なサスペンス・ミステリや、目頭を熱くさせるような家族小説を電車本にすると、思わず乗り越しそうになったり、涙をこらえるのに難渋するからいけない。それと同じ意味で、喜劇的小説も電車本にすべきでなかった。電車で読んでいるあいだ、笑いをこらえるのに必死だったからだ。
「あとがき」によれば、本書に収められている10編の連作は、1977年から79年に書かれたものだという。小学校高学年の頃だ。筒井康隆さんの文庫解説では、小林さんが本作品に散りばめたギャグの典拠について丁寧な注釈が施されているから、面白さが倍増する。
もちろん古い映画、とくに洋画を下敷きにしたパロディなどはほとんどわからないのだけれど、いっぽうで当時流行の文化風俗を茶化した“現代的ギャグ”に反応して笑ってしまうことが多々あった。だから、筒井さんのような、映画(洋画)に対する共通の認識がある人たちには、きっともっと面白く読めるに違いない。
とくに笑いをこらえていたのは、小林さんが「筋の細部や落ちを前もって作らずに、喜劇的想像力に連鎖反応をおこさせ、短距離の暴走をさせることによって、結果として一つの物語ができ上る」という試みを行なった第一話「唐獅子株式会社」であることは言うまでもない。
第三話「唐獅子生活革命」におけるマザーグースの天才的な翻訳、第八話「唐獅子暗殺指令」に登場する殺し屋たちの風変わりな殺人方法などもいいし(都筑道夫作品を思い出した)、作者の愛着も込められたブルドッグの運命にも泣き笑いだった。
第六話「唐獅子惑星戦争」のなかで、登場人物たちは「スターウォーズ」を何度観たかを競っている。わたしがリアルタイムでスターウォーズ・シリーズの封切に出くわしたのは、第三話(エピソード6)「ジェダイの復讐」からだが、たしかにこのときも何回観たという回数がマニア度を増幅させ、ある種のステータスになっていたような気がする。そんな騒ぎっぷりまで含め、時代の空気がパロディという缶詰によって保存されたかのようで、とても懐かしい。
古典のパロディならまだしも、パロディの対象を最新の流行風俗にすえることは冒険である。典拠とした流行風俗が廃れれば、パロディもその意味を喪失するからだ。でも、発表から30年を経過した本作品が色褪せないのはなぜか。
たぶん、パロディの典拠に注釈が必要になってくるにせよ、根本にある「喜劇的想像力」が強靱であり、普遍性を持っているからなのだろう。わたしには典拠がさっぱりわからないギャグであっても、連作中で何度も繰り返されることによって、そのギャグがパロディとは別次元の笑いを誘うという仕掛け。
筒井さんはこんな文章で解説を締めくくっている。

これで筆をおくが、最後にひとこと言わずもがなのことを。諸君。註釈とはこのような作品にこそ必要なのですぞ。なんのことを言っとるのか、おわかりでしょうな。
解説は1981年2月に書かれた。この解説文にすら注釈が必要になっているかもしれない。察するこれは、田中康夫さんのユニークな注釈小説『なんとなく、クリスタル』を念頭に置いているのに違いない。手もとにある河出文庫版の著者ノートによれば、80年5月に書かれ、文藝賞を受賞して10月に『文藝』誌に掲載、解説が書かれたわずかひと月前の81年1月に単行本として刊行されたという。いま『なんとなく、クリスタル』を読めば結構面白いので、以前買って読んだ河出文庫版(→旧読前読後2001/4/5条)を処分せず持っているのである。
それはともかく、上の推測が間違っていたら恥ずかしいが、当たっているとすれば、本文庫版は解説まで含め時代の流行風俗を典拠として成り立っていることになるわけだ。