植田正治の撮った東京

植田正治 小さい伝記川本三郎『ミステリと東京』*1平凡社、→2007/10/31条2007/11/12条)の影響がまだ残っている。しかも影響はそのなかで触れられている作家・作品にとどまらない。
本書のカバーに、写真家植田正治さんの作品「水道橋風景」が使われている。1932年の作品だ。坂道を走る市電が撮されているのだが、それがふつうの間尺ではなく、縦長に引き伸ばされたように歪んで、それゆえ一種幻想的な味わいのある写真になっている。
講演会での川本さんのお話しによれば、この写真は神田川の南側、水道橋(現在都立工芸高校がある付近か)から順天堂大学へ向かう上り坂(お茶の水坂)を撮影したものだという。そこであればわたしにとっても馴染みがある場所だ。
さらに川本さんは、この写真のなかに「お茶の水文化アパート」が写り込んでいることにも言及された。大正14年(1925)、ヴォーリズが設計したモダンな洋風集合住宅のさきがけである。かの明智小五郎も住んだという設定になっていることは、松山巌さんの『乱歩と東京』*2ちくま学芸文庫)に詳しい。
『乱歩と東京』や『東京人』2004年3月号(特集「東京からなくなったもの」→2004/2/4条)によれば、お茶の水文化アパートは日本学生会館となって、1986年に取り壊された。現在その跡地には、オフィスビル「センチュリータワー」が建つ。ああ、ここなら何度か前を通ったこともある。そこにかつてお茶の水文化アパートがあって、明智小五郎も住んだのか。
ところで川本さんの講演を聴くまで、恥ずかしながら「水道橋風景」を撮った植田正治という写真家をまったく知らなかった。それで意識するようになると、ふだん目にしたりする情報のなかに結構この名前が混じっていることに気づいた。世界的に有名な写真家である。
先日東京国立近代美術館を訪れたとき(→1/14条)、立ち寄ったミュージアムショップで、刊行されたばかりらしい(奥付は2008年1月3日)植田正治の写真文集植田正治 小さい伝記』*3を見つけたので、こういう機会にこそ買うべき本と購入した。
本書は、1974年から85年まで、『カメラ毎日』誌に断続的に13回にわたって発表された写真シリーズをまとめたもので、それら写真作品に付されたキャプションや、解説を兼ねた短文、関係する文章や対談なども一緒に収録されている。
植田正治はアマチュアリズムを貫いた写真家だという。山陰鳥取で写真館を経営し、生涯山陰を拠点にしつづけ活動したということに驚く。鳥取砂丘に人をオブジェのように配置した演出作品が有名で、その作風は「植田調」と呼ばれる。
見てみると砂丘の写真に限らず、人物のポーズや目線を指示して撮る演出の味が濃いもので、その意味では「反自然的」と言うべき作風だ。風景のなかにある人間の反自然的な存在の強さ、被写体の人間から漂ってくる人間くささは、わたしの知っている写真家で言えば、荒木経惟さんや細江英公さんのある種の作品を思い出させるものである。
ではなぜそんな植田さんが「水道橋風景」なのかと言えば、1932年に上京して、東京のオリエンタル写真学校に学んだ頃の作品らしい。本書を読むと、この作品が同年日本光画協会展の特選に入り、写真家として世に出るきっかけになったもののようである。
これとほぼ同時期の、1930年代前半頃に撮られた写真が、「小さい伝記7」として掲載されている。「ある日、あるキッカケから昔の本箱の抽出しの奥深くに収まっていたものを見つけだし」、そのほこり臭くてカビのついた50年以上前のネガを面白がって焼いてみたのだという。一緒に「水道橋風景」のネガも発見されたという。
50年を経てプリントされた30年代の写真のなかには、夜の銀座のネオンを捉えた一葉や、日比谷のデパートの屋上から市電の停留所を撮した一葉があって、それぞれやはり特徴的な構図になっている。
このような植田正治の経歴や写真作品を知ってみると、なるほど地方在住の彼によって撮されたモダン都市東京の姿が『ミステリと東京』のカバーに採用された理由がよくわかる。『ミステリと東京』で取り上げられたミステリ作品(とりわけ松本清張作品)を通して、地方から見た東京の姿と現代の都鄙間格差が浮き彫りにされたわけだが、植田正治の撮る都市東京もまた、そうしたテーマと深く関わることになるのである。