明治の香りを求めて

百物語怪談会

東雅夫『文豪怪談傑作選特別篇 百物語怪談会』*1ちくま文庫)を読み終えた。
最近この手の怪談もしくは幻想文学に類する小説に対し、そのように意識して読むことがなくなった。「そのように意識して」と付言したのは、本書の場合、読もうと思った動機が、語られている内容の怖さを愉しむというよりも、語られた話の背後にある世相、つまりそれが明治という時代のなかで語られたことへの関心が先にあったからだ。
本書には『怪談会』『怪談百物語』という、「百物語」形式の談話物語二種が収められている。編者東雅夫さんによれば、前者は明治42年(1909)、後者は同44年(1911)に刊行されたものである。
ある会場に文人墨客が集い、おのおの怪談話を持ち寄り、話がひとつ終わるごとに蝋燭を一本消して、すべて消えると怪異現象が起きる。こんな「百物語」の趣向は明治に流行を見せたという。
本書に収められた二篇はそのような怪談話が口述筆記のような体裁でまとめられているもので、『怪談会』の序文は泉鏡花、その他小山内薫や岡田三郎助、鏑木清方長谷川時雨、といった有名どころから、岡田三郎助夫人・鏑木清方夫人といった女性、現在では名前が忘れ去られた画家や評論家、さらにどんな人物かすらわからないマイナーな人びとが名前を連ねる。後者には柳田國男の名前も見える。
わたしは本書から、彼ら明治の文人たちが語る怪談話の怖さというよりも、たとえば岡田三郎助談「白い蝶」の舞台である芝赤羽橋辺、岡田八千代(三郎助夫人)談「赤剥の顔」・小山内薫「女の膝」の三番町、鏑木清方談「一つ螢」の谷中、市川團子談「巳之頭」の吉原、沼田一雅夫人談「雲つく人」の本郷といった、明治の時代、江戸の名残がある都市東京の香りを存分に味わい、愉しんだ。
このほかでは、六代目尾上梅幸のお化けに関する短い芸談を連ねた「薄どろどろ」の滋味、怖いというより笑ってしまうユーモアに満ちた高崎春月談「天凹老爺」を愛する。怪談だから怖い話に触れておくのが礼儀だとするなら、柳川春葉談「青銅鬼」の強烈なイメージ喚起力に指を屈する。
前近代社会から理性が支配する近代社会に推移しても、なお都市空間には闇が根強く残り、人びとは闇のなかにお化けや幽霊を見いだす。いっぽうでそうした現象を三遊亭圓朝のように「神経」という語で解釈しようとする動きも出てくる。
本書には、松谷みよ子さんの『現代民話考』でいえば、ちくま文庫版第4巻「夢の知らせ」*2に分類されるような、ある人が亡くなった時刻とほぼ同じ頃に、その人の魂が人間のかたちをして血縁者や親しい人の前(もしくは夢枕)に現われるといった同工異曲の怪異譚がすこぶる多い。
水野葉舟は「月夜峠」のなかで、遠野の話として、二人の漁夫が出会った体験談を伝えている。東さんによれば、水野葉舟泉鏡花柳田國男と並んで、この時期の怪談文芸興隆に寄与した」人物で、佐々木喜善を柳田に引き合わせた、つまり『遠野物語』の生みの親でもあるという。
ゆえに「月夜峠」では遠野の話が紹介されているわけだが、実は「月夜峠」が収められた『怪談会』の翌年刊行された『遠野物語』にも同じ話が採録されている。『遠野物語』のテキストを紹介しよう。

船越の漁夫何某、ある日仲間の者とともに吉里吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のある所にて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思い定め、やにわに魚切庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声をたてて死したり。しばらくの間は正体を現わさざればさすがに心に懸り、後の事を連れの者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。さてはと合点して再び以前の場所へ引き返して見れば、山にて殺したりし女は連れの者が見ておる中についてに一匹の狐となりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を傭うことありとみゆ。(第100話)
実は「月夜峠」と上の『遠野物語』には若干の違いがある。「月夜峠」では、山道で女を怪しみ殺害したのは、女の夫ではなくその連れの漁夫なのである。そのほうが少しドラマティックだろうか。逆に「月夜峠」にない『遠野物語』の最後の一文はすこぶる文学的にして、分析的玩味のある叙述だ。
遠野物語』が収められたちくま文庫版『柳田國男全集4』*3の解説のなかで、永池健二さんもこの「月夜峠」と『遠野物語』二つの相違について触れている。永池さんは、佐々木喜善の語る遠野の話を「怪談」として書き留めたのが水野葉舟で、柳田はそう受け取らなかった(その結果が『遠野物語』に結実する)と指摘している。
ひとつの原話から怪談と民俗学の端緒となった口碑記録が生まれる。『怪談会』はその分岐点にあったわけである。