別腹とは心で食べることなり

作家の別腹

野村麻里編『作家の別腹―文豪の愛した東京・あの味』*1(知恵の森文庫)を読み終えた。
世の中にグルメ、グルマンをテーマにした食のアンソロジー本は数あれど、本書がユニークなのは、具体的な「東京にある店」の食べ物を取り上げた文章を選び、もしその店がいまもあるなら、店のデータも掲載されていることだろう。作家の文章を読んで、語られている食べ物が食べたくなったら、飛んでいくことも可能なのである。
一篇一篇、編者の野村さん(食と食文化の周辺について執筆活動を展開するライターとのこと)が丁寧な解説文を付けられているのも面白い。本編より解説の分量のほうが多いこともある。
ところで書名にケチをつけるつもりはまったくないのだけれど、身も蓋もない話をさせてもらえば、わたしは「別腹」などという現象を受け入れることができない。
ふつうに食事をして満腹で、もう食べ物を受け付けないはずなのに、甘い物が出るとそれにも食欲が沸く。女性の言動によくありがちな、「入るところが違う」というやつである。わたしも甘い物は嫌いではないが、満腹のときに甘い物が出ても、あまり食欲は沸かない。たとえその甘い物が高価なケーキであるので無理して食べたとしても、おいしいとは感じない。
そもそも生物学的に「別腹」なんて腹は人間にあろうはずはないし、「入るところ」が別にある、たとえば甘い物用の胃袋なんてあるはずもない。などと考えるのは、本当に身も蓋もない言い方でわれながら興醒めである。
「別腹」は現実的にありえない。だからこれはロマンなのだろうと勝手に解釈する。別腹はロマンなのだ。別腹という腹のなかには、普段の日常生活で三度三度食べる食事とは別の物が入る。いつも食べられるものではないから、別腹というロマンの入れ物をこしらえて、そこに好きなご馳走をたらふく放り込んで、幻想の食欲を満足させる。
たとえば本書に収められた幸田文さんの「花見だんご」という一篇がある。三つ子の魂ということで、幼い日に食べなれただんごやさくら餅がいまでも好きなのだが、老いてくると胃も縮んでしまい、食事も少量で満腹になってしまう。間食する気がおきない。
だからいいお菓子をすすめられ、おいしいと思っても半分しか食べられないことがしばしば。なのにときどき無性にだんごが食べたくなることがある。町のお菓子屋さんからつい桜餅を買ってしまい、家人にからかわれることがある。
そうしたとき、幸田さんはこうつぶやく。

これは心で食べる菓子なんだゾ、若いもンが年寄りによけいなオセッカイやくな。(234頁)
お見事である。「別腹」に入れるとは、「心で食べる」ことなのである。「心で食べる」というのは、実に美しい表現ではないか。