「若天王」に泣かされる

宮島のだんまり

歌舞伎を見はじめた当初、この「だんまり」という芝居がよく理解できなかった。合理的解釈しようという余計な「理性」が、この「だんまり」にせよ、千本桜の「すし屋」にせよ、理解を阻むのである。
暗闇のなかで宝を奪い合うというパントマイム劇は、顔見世で集まった座組を観客に見せるということに意味があったのだ。もっとも現在では比較的若手の役者さんたちが勢揃いすることになるが。
そのなかでの座頭的立場は、傾城浮舟太夫実は盗賊袈裟太郎の福助。この人の本役である傾城よりも、幕切れに壮絶ないでたちをして六法を踏みながら引っ込む盗賊の役に迫力を感じる。当然わたしは観たことがないのだけれど、五代目歌右衛門福助の曾祖父)はきっとこんな役者さんだったのではという雰囲気。

仮名手本忠臣蔵 九段目山科閑居

忠臣蔵は何度も観たが、九段目はたぶん二度目。初見はたしか加古川本蔵が仁左衛門だと思うのだが、「たしか」と言うように、睡魔によってきちんと観ていない。こんな面白い芝居だったとは知らなかった。前回ちゃんと観ておくのだったと後悔する。
加古川本蔵の後妻戸無瀬と娘の小浪が、許嫁の大星力弥のもとに輿入れすべく、大星由良之助の閑居する山科の邸宅に向かう。戸無瀬の芝翫が初役というから驚き。だって、この人ほどこういう役がぴったりな人はいないだろうから。
前半の女の芝居から、後半は本蔵の幸四郎、由良之助の吉右衛門が登場して、重厚な男の芝居となる。この兄弟の顔合わせもすっかり珍しくなくなってしまった。観たい観たいと念願していたときのことを思えば、こう何度も共演するともったいなさが薄まるのではないかと贅沢を言いたくなる。でも本蔵の幸四郎と由良之助の吉右衛門という組み合わせはピタリと決まって楽しめた。

土蜘

今回の夜の部のうちでは、この土蜘が最も面白かったかもしれない。これも何度か観ているものだが、やはり音羽屋の家の芸、僧智壽実は土蜘の精を菊五郎、頼光を富十郎という顔合わせに加え、上段と下段をつなぐ場面である番卒のくだりで、番卒三人を仁左衛門梅玉東蔵という豪華な顔ぶれが演じるので、ここでの三人の余裕をもった踊りによってまったくダレない。
そしてなんと言っても「若天王」。天王寺屋の御曹司鷹之資が演じる小姓の凛々しさよ。鷹之資はわたしの長男とまったく同年で同じ誕生日である。だから他人のようには思えず、初舞台も観に行ったので、まるでわが子の成長を見るかのように、小姓を立派に演じるまでになった素晴らしい成長ぶりに目が潤んでしまった。「若天王」という掛け声も微笑ましく、鷹之資にぴったりである。

三人吉三巴白波 大川端庚申塚の場

孝太郎のお嬢、染五郎のお坊、松緑の和尚という顔合わせ。これを観ずに帰る人がいたり、途中で席を立つ人が目につくなど、観る側のマナーもいかがかと思われるが、やはりこれまで重厚な三人を観た経験のある人にとってみれば、軽さは否めない。何がどう違うのだろう。
たんに観る側のわたしたちが、演じる役者さんたちの格を承知しているから先入観を持ってしまい、勝手に物足りなさをおぼえてしまうのか、実際軽いのか。大向こうの掛け声も前の「土蜘」とくらべてほとんどなかったのが可哀想ではある。
このなかでは、染五郎のお坊が以前観た吉右衛門のそれを彷彿とさせられたので、一番印象に残った。