鹿島式発想法の原点

クロワッサンとベレー帽

鹿島茂さんは丸谷才一著『思考のレッスン』*1(文春文庫)の書評「ものを考えることは「最高の遊び」」(『鹿島茂の書評大全 和物篇』*2所収)のなかで、丸谷さんの発想法を紹介している。
それによれば、「不思議だなあ」という気持ちから発して「いかに『良い問』を立てるか」に尽きるという。自分のなかに他者を作って、もう一人の自分に謎を突きつけること。謎を育てようとすると学界の定説にぶつかることがあるが、専門家に笑われてもいいと度胸を決めなければならない。
謎を深く考えるためには分析と比較を行なう必要がある。比較のさいには自分のホーム・グラウンド(得意分野)を持っていれば、アナロジーによって仮説を立てることが可能となる。これによって一つの「型」の抽出に成功したらそれに名前を付けよ。かくて「ものを考える」ことが人間にとっての最高の遊びになる。
学生の卒論指導に益するいい本を見つけたと喜んでいる鹿島さんだが、同書にあるような発想法をもっとも素直に実践しているのが、実は鹿島さんご本人ではあるまいか。
鹿島さんの文庫新刊『クロワッサンとベレー帽―ふらんすモノ語り』*3(中公文庫)がその実践篇にあたる。
本書の元版は1999年にネスコ・文藝春秋から出た『上等舶来・ふらんすモノ語り』*4である。ずいぶん以前に出てそのままになっていたものがふたたび陽の目を見たという按配だ。鹿島さんによる比較文化的フランス文物紹介エッセイ集はたくさんあるので、自分でもどれを読んでどれを読んでいないのかわからなくなっていた。もちろんわが書棚の“鹿島コーナー”には本書が存在している。
そこで以前の読書記録を調べてみると、本書は「読書中断」となっていた。読んではいたが、読み終えないうちそのままになっていたのか。元版を開いてみると、たしかに170頁と171頁の間に栞がわりの紙片が挟んである。文庫版で言うと172頁と173頁の間にあたる。第二部「遠い昔と近い昔」のうちの「そして今 Et maintenant」の直前だ。
挟まっていた紙片は、1999年3月に渋谷パルコで開催された「幻想と詩とエロチシズムの寺山修司・映像詩展」の半券だった。寺山の17回忌にあたり開催された映画上映企画で、たしかこのときは「草迷宮」を観に行ったはずである。懐かしい。
まあそれはどうでもいい。丸谷式発想法の鹿島的実践篇の話だった。本書『クロワッサンとベレー帽―ふらんすモノ語り』のなかでも、とりわけフランスの事物や習慣のあれこれを取り上げた第一部の「ア・プロポ A propos」(初出は日本経済新聞連載)が謎の提示と分析の宝庫になっている*5
たとえば「シロップ」の一篇。まず、かき氷に「メロン」「イチゴ」「レモン」のようなシロップをかける習慣はいつ頃から始まったのかという疑問が提示される。百科事典を調べると、これら人工果実シロップは戦後の砂糖不足のおりに普及したとあり、戦前はなかったらしいが、これにも疑問を投げかける。
いまひとつの疑問として、「緑=メロン」「赤=イチゴ」「黄=レモン」という色彩とフレーヴァーの関係はいつどこでだれが決めたのかという謎が出される。ここで鹿島さんのホーム・グラウンドたるフランスのそれが比較の俎上に載せられ、上記の関係が自明のものではないことが明らかにされるのである。
フランスでは「黄=レモン」という点だけ日本と同じで、赤はカシスかザクロ、緑はハッカだという。フランス人はこの緑のフレーヴァーが大好きで、日本に来て緑色のシロップがメロンであるのに面食らうのだそうだ。そこから逆に、日本における緑のフレーヴァー=メロンという連想が出てきたのはなぜかという新たな疑問に立ち至る。
ここではこれら疑問が解決されるわけではないけれど、日本とフランスの文化的習慣的差異が、かき氷のシロップという卑近な素材によって、次から次へと新しい疑問のかたちで提示されるから、読んでいてすこぶる刺激的である。
その他にも、日本のスリッパはなぜ「slipper」と呼ばれているのかという考察や、万事に倹約精神を発揮するフランス人がなぜ砂糖にだけ「甘い」のか、というフランスにおける砂糖浪費の考察などなど、疑問の提示→アナロジーという展開がきちんとおさえられている。これらは実際ご本人が抱いた謎の解決というだけでなく、エッセイの叙述方法として物事が一度分解され、組み立て直されているやり方もあるのだろう。
ただ丸谷式発想法で言う最後の「名付け」だけが不十分のようだ。現在の鹿島さんの場合、たとえば日本近代史に関する「ドーダ理論」の適用など、専門家をものともしない度胸と積極的なネーミングで次々と新境地を切り開いているから、これはきっと丸谷式発想法吸収の成果なのかもしれない。
そもそも本書は、1984年(当時35歳!)に書かれた古いエッセイが収められていたり、学生や大学院生の頃のフランス語学習の思い出話があったりと、「物書き」として注目されはじめた頃の若々しくみずみずしい雰囲気に満ちている。
現在の鹿島さんの著作で展開される重量級の考察とはひと味違う、鹿島さんの「発想の種」が粒ぞろいに示された軽やかな比較文化論が愉しめるという意味で、新鮮な一冊であった。

*1:ISBN:4167138166

*2:ISBN:9784620318271

*3:ISBN:9784122049277

*4:ISBN:4890369953

*5:なお念のためつけ加えれば、『思考のレッスン』元版が刊行され(鹿島さんが書評を書い)たのも1999年だから、本書で展開されている発想法は『思考のレッスン』の直接的影響下にはない。