第93 東京西南部を南北に動く

松本清張邸

職場にあった「東京文化財ウィーク2007」のガイドブックを眺めていたら、惹かれるイベントが二つあった。そこでこの二つを軸に一日の散策プランを組み立てる。
まず一箇所目は、大田区立郷土博物館で開催されている特別展「川瀬巴水 旅情詩人と呼ばれた版画絵師―没後50年―」である。没後50年を記念して催されたこの展覧会、川瀬巴水は生涯の大半を大田区で暮らした版画家である。
巴水の描く東京の風景画に魅せられ、展覧会があるごとに足を運んでいるが、この大田区立郷土博物館との関わりでは、五年前の「版画にみる東京の風景」展(旧読前読後2002/11/10条参照)を思い出す。郷土博物館最寄りの都営浅草線西馬込駅から博物館までの道沿いの風景は、五年前とさほど変わっていない。
今回の展覧会では、東京各所の夕暮れや黄昏どき、あるいは夜景、雪景色といった巴水得意のモチーフによる作品を楽しんだことはもちろんだが、版画ならではの色ごとに重ね摺りをしてゆく行程が一帖に仕立てられた『「若狭……久出の濱」木版畫順序摺』に見入った。
輪郭線の墨摺から、実に34度(30色)も重ね摺りしてゆく行程を、見開き画帖の左に色だけの摺り、右にそれを重ねたまでの時点のできあがりを配して完成までを示すもので、微妙な違いのある色を重ねてゆくことで、石浜と海を隔てた向こう側に山並みが霞む風景版画が見事にできあがる。色の重ね具合の結果が予測できないと不可能な作業であり、巴水版画の秘密がここに隠されているかのようだった。
『JAPAN TRADE MONTHRY』という雑誌(?)に発表された、昭和27年の作品「TOKYO(サンタクロース)」は珍しい。雪が降り積もった夜、回遊式庭園をそなえた日本家屋まではいかにも巴水という構図なのだが、その家に向かって、プレゼント袋を肩から提げたサンタクロースが歩いているのである。日本情緒を纏綿と描く巴水作品のなかでもユニーク。
この展覧会は驚くべきことに入館無料であり、図録も1000円と格安。巴水作品を堪能して、馬込の古道とおぼしい尾根づたいの道を馬込駅まで戻る。そこから環八を通るバスに乗り、京王井の頭線新代田駅まで。新代田から井の頭線で浜田山で下車する。
浜田山といえば川本三郎さんがお住まいの町だが、それとともに、川本さんも愛する松本清張邸がある町だ。上空から松本清張邸を撮った写真があって、すぐ横に井の頭線の線路があったことを憶えている。たぶん浜田山駅から次の高井戸駅まで線路沿いに歩けば、見つかるのではあるまいか。そんな期待を抱き浜田山で降りた。
わたしが持っている23区の地図には、浜田山駅のすぐ南に三井不動産上高井戸運動場という広大な敷地がある。いま脇を通り過ぎると、ここにマンションが建設中だった。たしか川本さんがこのマンション工事を嘆いたエッセイがあったように思う。でもこのあたりとても雰囲気がよく、お金さえあるなら住んでみたいなあと憧れてしまった(だから叶わぬ希望)。
さて目指す松本清張邸は井の頭線浜田山から高井戸の間、沿線南側に見つけた。三角形状の敷地であり、浜田山駅に近い一角は芝生が敷かれた庭になっている。庭は意外に狭いが、母屋やそのあと建てられたとおぼしいご遺族の住居など、一戸建て数戸分が敷地内にあったので、敷地全体はかなり広いはずだ。
文化財ウィーク」の目的はこの松本清張邸ではない。近くにある高井戸の浴風会本館である。以前観た吉村公三郎監督の映画「銀座の女」(→2/15条)の冒頭、元芸者の飯田蝶子が自ら進んで浴風会に入ったというニュース映画が映し出される。飯田蝶子置屋で働いていたことのある轟夕起子たまたまこれを観て、自らの将来を想像し暗然となるのである。
浴風会はこの映画にもあるように、病院などを兼ね備えた複合的な老人養護施設なのだ。50年以上前の映画だが、誰の世話にもならぬといさぎよく浴風会に入って余生を楽しむ飯田蝶子は、とびきり先進的な考え方の持ち主ではある。
浴風会本館は、大正15年に建てられた。設計者は内田祥三・土岐達人。いわゆる「内田ゴシック」の、東京大学の建物を思わせる直線的で茶系統のスクラッチタイルが組み合わされた重厚な造りをしている。あの映画以来気になっていたのだが、今回「文化財ウィーク」の一環で本館外観の見学が可能となっていたので、さっそく出向いた次第。
浴風会は高井戸駅から歩いて10分もたたない場所にある。鬱蒼とした緑に囲まれた広大な敷地のなかに、現在では様々な介護施設の建物が建てられている。その正面だけ見れば学校のようであるが、敷地に入って建物の周囲を歩いていると、小春日和のなか、車椅子を押して歩く家族連れが目立つ。
 
なぜか多いのは車椅子に乗るおばあさんで、それを息子とおぼしい中年男性が押し、脇に夫とおぼしき年輩の男性が寄り添っている。大事な家族の歴史の一齣。わが家族の数十年後に思いをはせる。
二つの目的を達成したので帰るつもりだった。小田急線の駅に出るバスがないかと高井戸駅そばを通る環八に出たら、あいにく京王線芦花公園駅終点のものしかない。芦花公園に何かないか…と考えて思い出した。近くの世田谷文学館植草甚一展(「植草甚一 マイ・フェイヴァリット・シングス」)開催中ではなかったか。さっそく実行に移すことにする。
わたしは植草甚一ファンと言うほどではないけれど、気になる存在ではあった。植草さんが偏愛したジャズには興味はないが、ミステリー小説や映画など、そそられるものがある。蔵書カードや読んだ本への書き込み、ノート、知人への葉書から原稿に至るまで、一字一句走り書きのようなものはなく、丁寧なあの特徴のある文字でしっかり記されていることに驚嘆する。
毎年の年賀状デザインも凝っているし、友人らに宛てた絵葉書やコラージュの書簡など、それでひとつの芸術品となっている。ニューヨークの町なかで植草さんが撮影した写真も、道路の落書きや集合住宅のポストなど何の変哲もない景色が、植草さんの目で切りとられただけで特別なもののように見えてくる。
植草さんは身長151センチと小柄だったという。小田急線車内でつり革につかまって立っている、晩年のあの髭が特徴的な姿を見ていると、頭だけが異常に大きく目立つ、まさに容貌魁偉という印象。それにしてもお洒落なおじいちゃんだ。展覧会を見ていたら頭の中がスッキリ覚醒してきた。
常設展は常設展で面白い。石塚公昭さんの写真作品がたくさん展示されていたり、探偵小説コーナーがあったり。以前もあった横溝正史コーナーでは、戦後直後の東京の町を舞台にしているという『女が見ていた』という作品に惹かれた。いずれ読んでみたい。
また江戸川乱歩が応接間に掲げていた村山槐多の「二少年図」が展示されていた。五年ぶりの再会である。以前弥生美術館の「江戸川乱歩の少年探偵団」展で観て以来(旧読前読後2002/12/7条)。来年二月から永井荷風展が予定されているとのことで、また数ヶ月後ここに足を運ぶことになるだろう。
帰りは小田急千歳船橋駅に出るバスに乗った。東京西南部は山手線から私鉄がいくつも放射状に伸びているが、それらを南北に結ぶ鉄道路線がないのが不便だ。それを補完するのがバス路線になるのだろう。
地元の人からはそんなことは当たり前だと言われそうだが、土地勘のない東京東部在住の田舎者にとって、東京は鉄道でという行動様式が骨がらみになっており、なかなかバスを使うという発想が出てこない。
そんな固定観念から脱却して、出たとこ勝負で歩いて見つけたバス停で路線を確認し、知っている駅や場所に出るという行動様式がようやく自然にできるようになってきた。行動範囲が広がるとともに、バス亭の名前になっている聞き慣れない地名がことごとく新鮮で、それら地名の響きを耳にするだけでも散策気分が盛り上がるのだった。