不意打ちの愉しみ

映画を見ればわかること2

いま出張先の秋田でこれを書いている。
出かける時間が朝の通勤ラッシュと重なってしまい、大きな荷物を抱えた人間にとって上野駅まで行きつくのがひと仕事だった。上野駅でも、ちょうど通勤電車から降りた人たちがいっせいにあの大改札口へ殺到する時間帯とぶつかった。まるで急流の川を横切って対岸に渡ろうとするかのように、人が流れる隙間をぬいながら「対岸」にたどりつき、東北(秋田)新幹線の改札口へ向かった。
でもこれが今回に限っては苦痛でなかったのである。先日観た映画「一粒の麦」や「ALWAYS 三丁目の夕日」で集団就職のため上野駅に着いた生徒たちがまず味わうのは、上野駅の大混雑だった。そんな人であふれた上野駅改札口の様子が、広々とした構内の雰囲気とあわせて50年前の映画とほとんど変わらないことを確認して、ふつふつと嬉しくなってしまったのだった。
それに、通勤のため急ぎ足で歩いている人の流れを、のんびり(というほど余裕はないけれど)東北へ向かう出張者として横切る快感も相まって、自然に頬がゆるんでくる。人の流れを横切ろうとする中年男の顔がにやけているのを訝しく思った人もいるかもしれない。
ところで川本三郎さんは、先に出た映画「ALWAYS 三丁目の夕日」への評価がすこぶる高い。「昭和三十年代の懐かしい風物や生活習慣が丁寧に再現されている」とし、若い監督があの時代の細部を再現してくれたことに拍手を贈る。近過去へのノスタルジーを退嬰的とする態度にくみしない。

大きな過去は歴史として尊重される。祖父母や父母が生きていた近過去のことは「単なるノスタルジー」と否定される。おかしな話である。近過去を大事に思い出す。それは自分の足元をしっかりと固めることであり、亡き人々を追悼することでもある。
そうして川本さんは「ALWAYS 三丁目の夕日」の細部描写を、昭和30年代につくられた同時代の映画と重ね合わせようとする。この場面はこの映画、あの場面はあの映画と、次々と連想が浮かびあがってくる。そのなかに、集団就職のつながりでちゃんと「一粒の麦」が引き合いに出されていた。だから神保町シアターの特集で川本さんはこの映画をラインナップに入れたのだろう。
上で引用した川本さんの文章は、新著『映画を見ればわかること2』*1キネマ旬報社)の一節である(「「ALWAYS 三丁目の夕日」のノスタルジーのことなど」)。
先日ある書店に入ったら、新刊コーナーで「川本三郎」の名前が目に入り、次の瞬間その本を手に取っていた。咄嗟のことゆえ、「『映画を見ればわかること2』? 1って、読んだっけ?」と、1を知らずに2が出てそれを知るという川本ファンにあるまじきミスを犯したという恐怖にかられた。
でも落ち着いて考えてみたら、1はちゃんと読んでいたのである(→2004/11/12条)。なぜそんな誤解をしたかと言えば、1と2では同じシリーズとは思えないほどカバー装幀が違っていたからだった。1は「夜の青木書店」の写真で黒い本だったのに対し、2は赤池佳江子さんのイラストがあしらわれベージュ系統の明るい色調に変わっていたのである。
1に比べ今回の新著では昔の日本映画に対する言及が少なくなっていたような気がする。洋画のことはさっぱりわからないのだけれど、川本さんの本が好きな私にとっては、そんなことはどうでもいい。ただただ映画が好きで、しかも大上段に構えて批評をするよりも細部描写を愉しむ川本さんの文章を読んでいると幸せな気分になる。
「ALWAYS 三丁目の夕日」から昔の日本映画のあれこれを思い出した一篇に代表されるように、ひとつのキーワードからあれやこれやの映画を出してきて読者に提供する川本さんは、まるで自宅に友達を招いた子供が自分のおもちゃ箱のなかから相手が好きそうなおもちゃを次々と出して見せているかのように無邪気である。
川本さんは本書の意図を、「いってみれば、映画を見たあと、本当に親しい人間と、居酒屋でおいしい酒を飲みながら、いま見てきた映画の面白さを、いろいろな角度から論じる、その楽しさを活字で再現したい」(「あとがき」)と書いている。子供のおもちゃというのは失礼で、たしかに著者自身が書くように、居酒屋の閑談というのがふさわしいだろう。
それにしても川本さんの新刊は、時々あまり新刊情報にのらないようなマイナーな出版社から突然出るからうっかりできない。もうすぐ平凡社から出るはずの『ミステリと東京』を今日か明日かと楽しみにしていたら、突然真横から別の新刊書が飛び込んできた。すなわち本書である。潮出版社の『旅先でビール』でも突然の出会いに興奮をおぼえたが(→2005/11/13条)、好きな書き手の本から受ける不意打ちほど愉しい出来事はない。