三十代訣別の辞

汐留川

とうとう30代の残り時間もわずかとなってきた。もうすぐ40歳の誕生日を迎えるのである。不惑である。惑わないのである。40歳という年齢を迎えるなんて想像したことはあまりなかったし、まだ40代になるという実感も薄い。30代なんてあっという間だったなあというのが、正直な感想だ。東京に移り住んだのが30歳のときだから、30代はまるまる東京での生活に費やされ、ただただ慌ただしさのなかで過ぎ去ったことになる。
さてこれからの40代、わたしの身に何が待っているのだろう。まず乗り越えなければならないのが厄年か。数えで42歳だとすれば、来年がそれにあたる。それでなくとも身体のあちこちに不安を抱えている身の上、厄年に決定的な危機がおとずれないよう、注意しなければなるまい。
とくに30代も後半になってからは、家族を抱えた男が抱くさまざまな感慨について、わたしより数歳年長の重松清さんという代弁者を得たのが、読書のうえでの大きなできごとだった。重松さんの書く小説は、ご自身とほぼ同年齢の男が主人公である場合が多い。重松作品に登場する男の心境に自らの心境を重ね、共感し、過ぎし時をふりかえり、折り返し点を過ぎ下り坂に向かってゆく将来を想像した。
あたりまえのことだが、わたしと同様重松さんも年齢を重ねる。たぶんこれから重松さんの小説は40代の男が主人公となってゆくことが多くなるのだろう。40代男の代弁者としてなお期待しつづけたい。
30歳になったとき、40歳になった自分を想像できなかった。というより、想像すらしなかった。ところが40歳を迎えようとしている今、あと10年後、50歳を迎えたらどうなっているのだろうなどと想像する自分がいる。30歳の時40歳の通過点は見えなかったけれど、40歳目前の今、50歳の通過ラインが間近に見えている。
そうなると、50代男の心境を取り上げた小説が急に身近になってきた。ちょうど文春文庫新刊で、ノンフィクション作家杉山隆男さんの短編小説集『汐留川』*1が出たので購い、読んでみる。本書については、元版が出たとき誰かが絶賛していたような記憶があるのだが(目黒考二さん?)、そのときは読むまでには至らなかった。やはり50のラインが視界に入ってきたことが、読む気を起こさせたのだろうか。
この短篇集に収められた一篇「人生時計」のなかで、杉山さんは主人公の男の心境としてこんなことを書いている。

五十を間近にひかえて、いったい何をやっているんだという思いは正直あった。同じ四十代なのに、三十代の気分をまだ持ちつづけていた以前と、中年というより老いの響きが微かにこもる壮年の域に少しずつ足を踏み入れつつあるいまとでは、遊びに対する心構えも気分も情熱も楽しみ方も違ってくる。同じ十年でも、はじめと終わりでこれほどさまざまなことに振幅の大きな十年というのは、人生において他にはないだろう。(90頁)
いまわたしは人生において他にはないという「振幅の大きな十年」に一歩足を踏み入れようとしている。たしかに、しばらくは三十代の気分を持ちつづけることになるのかもしれない。それが大きく変化するのはいつか。われながら愉しみでもある。
それにしても、この「人生時計」をはじめ、本書に収められた杉山さんの短篇群には、50代男性が経てきた人生のさまざまな思いが凝縮されているため、残りの人生の生き方を考えさせられる味わい深さがあった。
とりわけ、中学や高校の頃と50歳を過ぎた時期との間の40年近くの時間が、自分の時間だけでなく、他人の時間の重みまで一緒に感じさせる表題作「汐留川」や「卒業写真」がいい。
青春時代から学生時代の慌ただしさ、勤め始めてからのまた違った慌ただしさを経験して、人生のゴールが見えはじめてきたとき、ふと来し方をふりかえってみる。通り過ぎた時間は自分にとってあっという間、一瞬のようであるが、若い頃の友人たちが同じように重ねてきた時間を想像したとき、その時間は急にずっしりとした重さとなって心に伝わってくる。
50歳という年齢は、そんな時間の重みをもっとも敏感に感じやすい時期なのかもしれない。