記憶と時間と謎と

めぐらし屋

自分だって書友の影響で読みはじめたくせに、そして、読んだ面白さをこのようなところに書いて推薦しまくっているくせに、その反面あまのじゃくなものだから、いざ多くの人が読みはじめて輪が広がってくるとそこから一歩身を引きたくなる。われながら身勝手な性格にうんざりである。
堀江敏幸さんの『アイロンと朝の詩人 回送電車Ⅲ』*1中央公論新社)が出たので購入した。でも上に書いたようなくだらない理由で、新刊で買ったまま未読の堀江本があるので、まずそちらを読むのが順序だろう。半年前に出た長篇小説『めぐらし屋』*2毎日新聞社)だ。
いま『めぐらし屋』を半年前に出たと書いたけれど、それを調べるため奥付を開いて驚いた。わたしが購入したのは初刷からちょうど一ヶ月後の日付のある2刷だったからだ。そういえば本書をなかなか書店で見かけなかったことを思い出した。そのあたりは『バン・マリーへの手紙』*3岩波書店)の感想を書いたときに触れた(→6/3条)。
この時点では入手していなかったわけで、ではその後どこで手に入れたのだったか、すっかり忘れている。ある本を手に入れた経緯を忘れてしまうというのも、読書力低下の一現象だろう。読書は本を探し、手に入れたときからはじまっているのだから。
『いつか王子駅で』に次ぐ、堀江さんにとって長篇二作目にあたるだろうか。倉庫会社に勤める独身(中年?)女性蕗子さんという女性が主人公である。蕗子さんはたぶんわたしより年上の設定だと思うのだが、年上だと思わせないあたり、不思議な存在感である。
小説での表記が「蕗子さん」であることが、川上弘美さんの代表作『センセイの鞄』の主人公「ツキコさん」を連想させたことも、読むのを躊躇させた一因であった。でもなぜそうした連想がマイナスに作用したのか、うまく説明できない。堀江さんの小説としては、女性が主人公というのも珍しいのではあるまいか。
両親が離婚し、離れて生活していた父が急死したのを受け、遺品整理のため父が住んでいたアパートを訪れた蕗子さんは、父の遺品のなかに「めぐらし屋」と題された一冊のノートを見つける。開いてみると切り抜きが貼られていたり、備忘録的なメモ書きが書かれてある。
子供心にも、父がどんな職業についていたのか、はっきりした記憶がない。職業を転々と変えていたようであるが、子供には教えてくれなかったし、母も父の仕事について説明してくれたことはない。では「めぐらし屋」とは何なのか…。
物語はそんな風変わりな屋号を名乗り何かをやっていた生前の父の痕跡を、蕗子さんが追いかけることがひとつの縦軸となる。これまた堀江さんの小説には珍しい、謎の追跡をめぐる物語である。とはいえ、蕗子さんは探偵よろしく証拠を積み重ねて謎を解き明かそうという積極性を持っているわけではない。
会社の健康診断で医師に「水風船のような心臓」(こういう比喩は堀江さんの独擅場)と注意を喚起されたほど、低血圧で体調の悪さがすぐ表情に出るほどのスロースターターであり、またそもそもが「めぐらし屋」という「活動」(「仕事」ではない。この表現も堀江さんらしい言葉の使い方)自体が受け身のものであることに対応して、その謎を追いかける追いかけ方も受け身である。
結局この物語は、父の記憶と、自分の記憶にある父と現在にいたるまでの時間の堆積に思いを馳せることが主題になっているかもしれない。

忘れていた記憶をひとの協力を得て突発的に思い出すことと、なんの記憶も持たなかった幼少時代の自分の姿や親の横顔を、確実に存在している写真や、映像や、身につけていた衣装、それから肉親をふくめたたくさんのひとたちの証言によって構築していくことは、どうちがうのだろう。人生最初の記憶がそれぞれの年齢で異なるように、記憶を持つ生きものとなっていく過程もみなちがう。存在した記憶をいったん失ってからつくり直すのと、最初から存在しなかったものを無理にこしらえていくのとでは、どんな差異があるのだろうか。(86-87頁)
半日、一日、三日間、一週間、一ヶ月。仕事の場で用いる時間は三語以内の漢字で表現できる。でも、そういう数字がどんなにせせこましい、またどんなにおおらかな部位の集積からなっているかをときどき顧みておかないと、心臓ではなくこころが鬱血してしまうような気がするのだ。三十年。時間がそんな短い言葉で片づくはずはない。にもかかわらず、日々の暮らしのなかでは、そうやってつごうよく数量化して物ごとを片づけていく勇気が必要なことも、蕗子さんにはわかっていた。(103頁)
こんな記憶と時間をめぐる省察が頭に残った。
まあでもそんな難しく意味づけすることはよそう。父の部屋にあった「めぐらし屋」のノートを自分の住まいに持ち帰るとき、雨が降っていたので、蕗子さんは「濡らして染みをつけないよういつも鞄に入れている書籍用のビニール袋にくるんで慎重に歩いてきた」というさりげない一節に出くわし、思わず嬉しく、読みながら頬がゆるんだ
わたしも雨に降られたときのため、鞄にはかならず本を入れるためのビニール袋をしのばせているからだ。ビニール袋といっても、本を買ったとき本屋が買った本を入れてくれる袋に過ぎないのだが、そんな本好きの些細な行動特性を堀江さんが描いてくれたこと。それを読んだだけで元を取った、そんな気がしたのである。