男の手料理

連篇累食

学生時代ひとり暮らしの自炊生活をしていたが、だから料理ができるかと問われれば、自信を持ってうなずくことはできない。
ひと夏中華料理屋でバイトしたことがある。その影響で自ら中華鍋を購入、豆板醤や甜麺醤を駆使して回鍋肉をこしらえることに夢中になっていた(そしてそれなりに食べられた)時期があったけれども、そんな「中華熱」はまもなく醒めてしまい、いま中華鍋は自宅台所棚の奥に眠っている。回鍋肉で用いた豆板醤や甜麺醤を別の料理(たとえば麻婆豆腐など)に転用するという機転も気力も持ち合わせていなかった。以上わが自炊生活の思い出である。
目黒考二さんの『連篇累食』*1ぺんぎん書房)は、本の雑誌社編集人を退いて、社屋ビルの別フロアに簡単な調理施設が備わった仕事場を設け、自炊生活を始めた目黒さんが、その自炊生活のなかで身につけた自慢料理や、それまでの人生のなかで記憶に残る思い出深い料理、関心は持っていたけれど作ろうとするまでの意欲がわかなかった料理について、最終的にはそれを作ることを目標にすえ、料理の過程を逐一報告、レシピまで付けられるという風変わりな一書である。
笹塚日記』などで目黒さんが自炊生活を披露していることに編集者が注目したのだろう、ふつうの「料理本」「食べ物の本」とは一線を画した楽しい本だ。
料理の作り方、レシピ付きとはいっても所詮男の手料理(というのは目黒さんに失礼か)、取り上げられているメニューは、すいとん、稲荷寿司、お弁当、雑煮、ドライカレー、牡蠣のオイスターソース炒め、白菜漬け、お好み焼き、茶碗蒸し、サンドイッチ、赤飯、ほかじゃがセット、ハンバーグなどごく簡単で基本的なものばかり。
なかでは牡蠣のオイスターソース炒めが本格的なものだろうが、たとえば「ほかじゃがセット」のように、昔よく通っていた喫茶店のメニューを再現したいというところから始まった、ローカルな食べ物まで含まれている。
この本は、レシピをもとにたんに調理の過程を記録した実用的な本ではない。他の目黒さんのエッセイと同様、記憶の糸をたぐり寄せ、それらを縒り合わせながら、読んだ本の内容と絡めて食べ物について書かれる、いわゆる「読書連想型」の食べ物版とも言うべき内容だから、ふつうの目黒エッセイ同様愉しめ、面白い。
母親の手料理の思い出から、上記した喫茶店メニュー、学生時代に食べたもの、競馬場で食べるものなどなど、目黒さんのエッセイに特有の、哀感に満ちた挿話が満載。
そういうコンセプトだから、毎回作られる料理の出来不出来は二の次。回によって完成度に大きな開きがある。本の雑誌の仲間たちに食べさせてみると不評だったり好評だったりする。それに一喜一憂する目黒さんの姿も微笑ましい。
素人くさくて爆笑してしまうのは、お好み焼きをこしらえた回。田辺聖子の短篇「お好み焼き無情」を縦軸に、高校・大学時代の思い出をさしはさみ、お好み焼きに触れたいくつかの本を紹介したあと、見よう見まねでお好み焼きづくりに挑戦する。その結果やいかに。

いやいや、びっくりしました。どうせまた失敗だろと思っていたら、これが美味しい。えっ、何でこんなに美味しいの、という出来なのである。かりかりして香ばしいのだ。問題は、その理由がわからないことで、いったい何がよかったんでしょう。(114頁)
材料も目分量で、焼く時間なども適当だったのに、予想以上のおいしさに逆に作った本人が驚いてしまう。それゆえに、なぜこんなに美味しくできたのか、何が良かったのか、原因がさっぱりわからない。失敗の原因はともかく、美味しい原因がわからぬままレシピだけ提供される。こんなふうに料理の要諦を外した料理本はそうあるものではない。