挨拶としての俳句

俳句のはじまる場所

熱中というほどではないけれど、五年ほど前の一時期、俳句づくりに凝ったことがあった。そのとき詠んだ句は、恥ずかしながら“手石堂詠草”にまとめてある。
その頃は、見たもの、感じたことを五七五の定型で表現しようという心持ちがなぜか強く働いていた。ただそのときの「俳句熱」とも言うべき関心の高まりは長くつづかず、句作も途絶えた。
これはひとえに自分には俳句を作る能力がないと思ったゆえである。十七音という短詩の定型で、見たもの、感じたことを表現するという方法論自体は別に間違っているわけではなかろう。自分の場合、それを生のまま説明的に十七音で表現しようとする次元とどまり、俳句すなわち詩というレベルにまで引き上げる能力がいちじるしく欠けていると痛感したのだった。
だからといって俳句そのものを遠ざけたわけではない。他人が詠んだすぐれた俳句を「読む」のが好きなことは変わっていない。いや自分の場合は、「俳句を読む」と言ってふつう考えられる「句集を読む」ことよりも、むしろ俳句を取り上げたエッセイや評論、あるいは評釈を読むほうが好きだ。
すぐれた俳人や見巧者のフィルターを通してすぐれた俳句に触れ、広大な世界が十七音というきわめて短い言葉のなかに凝縮されたことを感じ、驚異をおぼえる。これは快感以外の何者でもない。その地点に踏み止まり、そこから句作の道に入り込むという冒険をしなくなった。
句作熱が冷めた根本的な原因を、能力不足(つまり自分にはできない)と感じたことであった点動かないにしても、今回俳人小沢實さんの新著『俳句のはじまる場所―実力俳人への道』*1角川選書)を読み、さらに自分では気づかなかった別の理由がひそんでいるのかもしれないことに気づいた。
小沢さんは、俳句というものにはひととひととを結びつける、ひととひととを会わせる働きがあると指摘する。俳句は自分のために作るものだが、信頼できる読者に鑑賞してもらい、評価を下してもらってはじめて完結するという。他者の存在が不可欠なのである。ここに他者とのコミュニケーションが生まれる。句会の場がそうである。
これと関連して、小沢さんは山本健吉が俳句の本質を滑稽・挨拶・即興であるとした議論を受け、畢竟「俳句は挨拶なり」に集約できると論じる。本書のなかでも、挨拶としての俳句論に多くの紙幅が割かれている。挨拶、これもまた人と人とを結びつける契機になるものだろう。
省みて自分の句作が途絶えたのも、この点と関わるのに違いない。句作に熱を入れていた頃は、ネットを介してではあれ、人と人との結びつきができることを喜び、コミュニケーションを大切にしていた。でもこのところそうした意識がすっかり薄れてしまい、せっかくそのころ多くの方と知り合うことができたのに、今ではすっかり無沙汰をしてしまっている。
句作熱が冷めたことは、自分の中で他者との結びつきに消極的になったことのひとつのあらわれに違いない。小沢さんが俳句に挨拶という本質を見いだした本書を読んで気づかされる。
挨拶に本質を見いだし、それによって俳句の様々な要素を見直すことで、斬新な視点も生まれてくる。俳句に季語が必要なことについて、季語は俳句のいのちであることについてさまざな説があるなかで、これまでは読者の立場で季語が論じられていたとし、作者の立場として小沢さんは季語を捉え直そうとする。
「雪」「月」「花」という季語中の季語のなかでも、さらに「雪」については、それを詠んだ句の多くは他者、友を思う句であるとし、これは「月」「花」にも多かれ少なかれ共通するだろうし、さらに季語全般についても、こうした性格を持つのではないかと推論を展開させる。

俳句という極小の詩が、連歌の発句以来さまざまな展開を経て生き延びてきたのは、その小さな全身から人恋しさの思いを放っていたからではなかったか。そのいのちこそは季語が語中秘かに用意しているのであった。(165頁)
俳句は挨拶であると見すえたことによって、新たな視野が広がってくる。俳人の書く散文はとても端正で滋味深く好きなのだが、本書もまたその例外ではなく、俳句を鑑賞し尽くして詠むことの大切さが刈り込まれた文体で述べられている。
挨拶の大切さが身に迫ってきたとき、ただ「読む」ことから「詠む」ことへ進んでゆくかもしれないが、それはいつになるかはわからない。