たどりついた結末

完全版下山事件最後の証言

森達也さんの『下山事件シモヤマ・ケース*1新潮文庫)を読んで、下山事件への関心を再燃させてから半年も経過しているとは思わなかった。いまふりかえると、映画「黒い潮」を観てから同書を読み、下山総裁轢断現場(慰霊碑)を訪ねたのは今年2月のことなのである(→2/13条2/14条)。
たしか、森さんが下山事件に深入りするきっかけとなった情報提供者が、柴田哲孝さんだったと記憶している。自身もライターだった「彼」が森さんに自分の家族が下山事件に関与したことを告白し、当初は森さんらの取材活動の陰に隠れた存在だったものの、最終的にそのことを自ら執筆すると宣言し、森さんは挫折してゆく。
森さんの本では、情報提供者たる柴田さんのライターとしての仕事は、まだ限られた世界で知られているにすぎないような印象を受けた。たしか釣雑誌での執筆活動があげられていたと記憶する。
けれどもいまや新著が新聞広告で大々的に宣伝されるような、売れっ子ノンフィクション・ライターである。小説まで書かれているらしい。そのきっかけが、当の下山事件を書いた本『下山事件 最後の証言』とのこと。同書で日本冒険小説協会大賞日本推理作家協会賞をダブル受賞したのだ。
その記念碑的な著書が、『完全版 下山事件 最後の証言』*2として祥伝社文庫に入った。いまだ下山事件への関心が燃えかすのように残っていたので、完全に消えないうちにと購い、読んだ。600頁に迫る大著で、それでなくとも人間関係が込み入り、そこに国家、占領軍、政治家の思惑がからんでくるから、読みごたえ十分。
森さんの本は、下山事件を追いかける著者自身の苦闘を描いた私小説的なおもむきが前面に出ていた。本書の場合も、自分の祖父や大叔母らが、下山事件に大きく関与したとされる亜細亜産業に勤めていたということもあり、出発点はやはり事件への客観的関心ではない。
大叔母が漏らした下山事件と祖父に関係する発言に興味を抱いた柴田さんが、各種文献を読んで独自に下山事件を検討し、さらに大叔母やその夫、母らの直接証言を得ながら祖父の像を追いかけ、事件の核心に迫ってゆく。
最後に首謀者が特定されるものの、客観的証拠が得られないため「×某」というかたちでしか表記されない。しかし本書のなかで何度か登場し、亜細亜産業にも出入りした人物などと示唆されていることもあって、特定はある程度容易になっている。
そのようなかたちで、とうとう日本現代史における最大級の迷宮入り事件である下山事件の全容がほぼ解明されたにもかかわらず、たんなる下山事件の謎解きにとどまっていない点が素晴らしい。
戦後から現在にいたるまで、日本の政治の構造的な問題である「政官財の癒着」、今はやりの言葉でいえば「政治とカネ」の問題に、下山事件も無関係ではなかった。
松本清張的な「GHQの陰謀」という、ある意味手の届かない地点に核心があって、それゆえ下山事件は多くの人の関心を誘うのだと思っている。これに対して本書は、GHQの関与はあったにしても、結局国家利権に関わるトラブルに事件の直接的な原因を求めたということで、きわめてロマン性が薄いというか、身も蓋もない現実的な決着を示した。結局日本は下山事件の頃から、「政治のカネ」の問題を克服できていないということになる。
本書は「完全版」を謳っている。ダブル受賞した2005年刊の元版にさらに加筆修正されているという意味である。元版刊行をきっかけに、下山事件について重い口を開きはじめた人びとの証言を多く収めている。取材日が2007年4月11日というつい最近のものまである。
迷宮入り事件というものは、時間が経過すればするほど解決が困難になってゆくのがふつうだ。関係者も数が少なくなる。ましてや昭和24年(1949)から50年以上経過した下山事件、ますます核心から遠ざかってゆくはずである。ところが21世紀に入って次々と新たな証言が出はじめ、真相に近づきつつある。通常の迷宮入り事件とは逆に、下山事件は事件から50年以上経過したからこそ、当時は決して口を開かなかった関係者が重い口を開いたということがあるのだろう。
もちろん関係者の多くが鬼籍に入ったという、他の迷宮入り事件と同じような限界はある。だから森さんの本や、さらに森さんや柴田さんとともに取材活動を行なったという朝日新聞社記者諸永裕司さん(『葬られた夏 追跡下山事件』)、さらに柴田さんは、これ以前もこれ以後もないと言うような、下山事件を追及するための絶妙なタイミングで取材を行ない、著述に結実させたというべきなのだろう。
わたしは、小林桂樹さん主演のドラマ「空白の900分―国鉄総裁怪死事件―(前・後編)」から、松本清張の『日本の黒い霧』を経て、森さんや柴田さんの本にたどりつき、下山事件とともに戦後政治史の暗部について少しずつ知識を深めることができた。下山事件を知らない人びとにとって、最初から柴田さんの本が目の前にあるのは、幸福なのかどうか。幸福なのは違いないだろうが、ちょっともったいないような気もする。