病のなかに身をおいて

大学という病

勤務先の図書室に架蔵していないマイナーな地方自治体史のたぐいを、まれに経済学部の図書室が持っていることがある。経済史あるいは農業史(農政学)を専攻していた経済学部の先生が集めたものなのだろうか。
それらを借りるため時々経済学部の図書室を訪れる。すると、カウンターのある閲覧室の壁面にずらり歴代教授の肖像写真が掲げられており、いかにも栄えある学部の威厳ある先生方といった面持ちなので、圧倒される。閲覧室で勉強する学生さんたちは、歴代教授に上から見つめられながら勉学に励んだり、居眠りしたり(?)するわけだ。
こうした歴代教授の肖像写真は、たいてい教授会を開催する会議室などにあるものだと思っていた。でも自分の出身大学・研究室をふりかえれば、研究室に所属する学生が調べ物をするための部屋にその専攻の歴代教授の写真が掲げられていたから、学部全体ではそのようなことはなされていなかったとおぼしい。やはりわたしたちの場合も、学生たちは歴代教授の監視下で勉強していたことになる。
こう考えれば、学生が勉強する空間に歴代教授の肖像を掲げるということも、学生に何らかの効果を与えるような意図があったのかもしれない。
さて経済学部図書室の歴代教授写真に話を戻せば、そんなふうにしてときどき眺め入っていた経済学部歴代教授たちによる泥沼の派閥抗争の顛末を描いた本、竹内洋さんの『大学という病―東大紛擾と教授群像』*1(中公文庫)が出たので買い求め、むさぼるように読んだ。
東大教授という権威ある存在と、彼らの俗物根性まるだしの権力抗争というギャップ、そこに生ずるスキャンダラスで生々しい上昇志向をやんややんやと楽しむのが、本書の正しい読み方なのだろうか。その意味ではとても面白い「読み物」ではある。
本書のテーマである戦前期東京帝国大学経済学部におけるマルクス主義教官と反マルクス主義教官を軸とした権力抗争が、近代日本の大学史研究のなかで必ず触れられる定番のテーマであり、「大学版忠臣蔵の趣がある」と著者は言う(「あとがき」)。いま本書を「読み物」と書いたのは侮蔑ではなく、この言葉を意識してのものである。
しかしながら実は、本書をたんなる「読み物」と思っては大間違いだ。たしかに素材が「大学版忠臣蔵」だから、東大教授たちの生々しくも醜悪な争いや、主導権を握るためなら思想を捨てて離合集散を繰り返す派閥の動きと、それによって勝利者があっという間に無惨な敗北者に転じるというドラマティックな展開は読んでいてゾクゾクさせられる。
でも背後には、現代において直面している大学改革の問題、アカデミズムの研究者らによって構築される大学知の危機的状況、教員や学生の質の低下の問題などなど、すぐれて現代的なテーマに直結する深くて大きな問題提起が含まれており、読みながら粛然たる気持ちにならざるをえなかった。
とはいえわたし個人としては、そんな深遠なテーマとは無関係に、「大学版忠臣蔵」として愉しんだ。上述したような厳めしい「教授群像」の、ポストや肩書をめぐる一喜一憂、学問的名声と世俗的名声をめぐる嫉妬や怨嗟など、いやあ、大学って、哀しくも恐ろしく、馬鹿げたところですねえ。
それに昭和戦前期における助手・助教授・教授の俸給表や昇進サイクルなど、具体的な資料を提示したうえで経済学部教官連の争いが描かれるのを読むと、とても他人事ではいられなくなるのである。
本書の狂言廻しであり、昭和初年に左傾教授として辞職を余儀なくされ、大学を逐われたマルクス主義経済学者大森義太郎は、国立大学教授の「薄給」では食べていけないと、ジャーナリズムの世界で原稿を書いて家計の足しにしていたなんて、いまと変わらないではないか。
大森義太郎は、辞職して自由な立場となるや、これまで所属していた大学・学部の内部事情を暴露し、対立していた教授連を散々こき下ろす文章を次々と発表した。大森は江戸っ子教授で歯に衣着せぬ物言いが特徴だったという。
穏健で学部のまとめ役だった古参教授を田舎者と蔑んだことについて、竹内さんは、この対立をたんなる二人の性格からくる感情的なものとせず、ピエール・ブルデューが提起した分析概念である「ハビトゥス」を使って理解しようとする。
この醜悪とも言える対立を個人と個人の衝突に還元せず、より広範な社会的慣習の差異に根ざしたものとすることで、個人の対立が派閥間の対立へ、さらに社会階層の対立とリンクされ、狭い組織での口喧嘩が社会的な意味を有したものとして位置づけられる。
このような社会学的分析は、後半「規範ルサンチマン」という分析概念を用いて経済学部内部の対立を読み解くところでも鋭い切れ味を発揮している。五十歳をすぎた老齢学者の「学問に対する倦怠」の対処の仕方が、この規範ルサンチマンという概念で読み解かれる。
「集団への帰属を認められたいがために、我慢して規範にしたがっている」ことで、ルサンチマンが生じる。このような規範ルサンチマンを抱いた人間は、えてして集団の規範に従わないような成員を弾劾したがる。
学問権力資本(学術雑誌の編集長など)・学問威信資本(学士院への所属、受賞など)・知的名声資本(知的ジャーナリズムへの登場など)の蓄積がかなわない凡庸な学者にとって、よりどころは自分の帰属する学問と組織しかない。我慢して規範にしたがっているから、そこにルサンチマンが蓄積する。
だから、倦怠を学問でなく学内政治に力をいれることで回避しようとする人間は、彼らにとって激しい憎悪の対象となる。たんなる「大学版忠臣蔵」として面白おかしく見られてきたゴシップも、このようにひとたび最近の新しい社会学的分析概念が適用されれば社会性、歴史性を帯び、現代へつながるテーマとなりうる。
わたしにとっては、現在や将来の自分の姿を反省し、想像させられるような身につまされた本であるいっぽうで、講談的面白さも備え、かつ知的刺激も満足させられる、とても読み応えのある本であった。