赤瀬川原平は警告する

日本男児 (文春新書)赤瀬川原平さんの新著『日本男児*1(文春新書)を読み終えた。
タイトルから想像されるような、最近ひ弱になった「日本男児」の魂を復活させようと意気込んだ本ではない。もともと「頭からウロコ」というタイトルで『オール讀物』に連載されていたものが、まとめられるとき、“新解さんの謎”のあのSM嬢がつぶやいたひと言がそのまま採用されたのだという。
現代社会批評と言うべきか、警世の書と言うべきか。このようなかしこまった言い方を避ければ、現代社会に対する違和感を綴った本と言うべきだろうか。世の中の風潮にしっくりいかないことを正直に告白した内容だが、これまでの赤瀬川さんの本に見られなかったような諦念、徒労感、ペシミズムといったような雰囲気が文章がにじみ出ており、赤瀬川さんが好きなわたしとしては、ちょっと辛くなった。
「頭からウロコ」という連載タイトルに即して言えば、頭からウロコが落ちるような指摘ももちろんいくつか見られた。デジカメに対する違和感を綴った「未来に奉仕する気持ちが激減している」のなかで、対比されたフィルムカメラ(とその思想)を次のように規定する。

少々大げさな言い方になるが、そういうカメラを使う時代には、作品はむしろ未来に残すものとしてあったのだ。そのために作品をしっかりと構築して、悔いのないようにと、万全の努力をしていた。映画に限らず作品を残すとはそういうことで、それを残すための後世、つまりその後世という未来が拠り所としてあったのだ。(122-23頁)
これに対するデジカメで撮った画像は「別に残すまでもない」現在の映像であり、未来への奉仕という気持ちを喪失しているという。言われてみると思いあたるふしがないでもない。たとえば子供のスナップ写真を考えてみる。もちろん未来に残すものとして撮っているつもりだけれど、撮影の簡便さのあまり、撮影したらそのままで、注意深く保存措置を講じることがなくなってきた。
このように、赤瀬川さんのなかでは、パソコンの普及に代表されるデジタル社会への違和感がもっとも強い。「人生は趣味なのか、仕事なのか」という一文ではモニターに向かっている姿そのものがすでに「仕事的」であり、事務なのだと言う。そしてそれが至るところに蔓延している。
昔の人生はそうやって趣味機器と共にあったのだ。それがいまは人生を遊んでいるつもりでも、手にしているのはほとんどがデジタル系の事務機器である。昔の人生は趣味だったのだのに、いまは人生が事務に変わっているような気がしてならない。そのせいではないと思うが、人生が嫌になる人の率は驚くほど増大している。(132頁)
とはいえ赤瀬川さんにはラジカルな血も流れている。閉塞的な世の中を、近年悩まされているという自らのアレルギー性の鼻づまりと対比させて「世間の鼻づまり」と表現する。鼻づまりや睡眠不足などの自律神経失調状態から解放されるためには、筋肉をリズミカルに動かす強制的な運動が必要だとして、あえて「徴兵制」という言葉を持ち出す。
昔は徴兵制というものがあり、一定期間の共同生活を強制されることで、世間的鼻づまりはなかった。自律神経はちゃんと機能していた。(228頁)
もちろん真面目に徴兵制復活を叫んでいるわけではない。人生が仕事化し、それによって鼻づまりになって人間関係が崩れてゆく。自由自由と叫んでみたのはいいものの、自由をほったらかしにするとどうなるのか。そんな素直な疑問をストレートに投げかけてくる。赤瀬川さんには、まだ世の中を見限らないでほしいものである。