水上ミステリに注目

虚名の鎖

昨日触れた開高健『日本人の遊び場』(光文社文庫)は、「開高健ルポルタージュ選集」というシリーズの第一冊目。続刊として、これも昨日言及した『ずばり東京』や、『過去と未来の国々』『声の狩人』など、開高さんのルポルタージュの代表作品が予定されているらしい(裏表紙折返)。
光文社文庫からは、今月この「開高健ルポルタージュ選集」以外にも、注目すべきシリーズの刊行が始まった。「水上勉ミステリーセレクション」がそれである。今月出た第一冊目は長篇『虚名の鎖』*1。こちらは裏表紙折返に続刊予定が記されていない。水上ミステリの代表作『飢餓海峡』は新潮文庫に入っているから、それ以外の『霧と影』『海の牙』などが文庫に入るのだろうか。
本作品の元版は1961年に光文社カッパ・ノベルスで刊行されているので、光文社は自社の資源を有効活用したわけである。1979年に一度集英社文庫で文庫化されてはいるようである。
飢餓海峡』は内田吐夢監督の映画で満足してしまい、文庫版上下巻の原作をいまだ読んでいないから偉そうなことは言えないけれど、松本清張の直接の影響を受けた社会派ミステリのいっぽうの雄ということで、清張好きとしては水上勉作品も気にならないでもなかった。
これも偶然だが、先日読んだ藤井淑禎『清張 闘う作家』(ミネルヴァ書房、→7/4条)で水上ミステリも批評の俎上に載せられていたこともあって、気になっていた矢先の刊行なので、嬉しい。
もとより本作品『虚名の鎖』は、前述した『霧と影』『海の牙』にくらべ、著者も完成度が劣ると考え、失敗作とみなしていたらしい。解説の細谷正充さんはこのことを紹介しながら、「たしかにテーマや題材への踏み込みが、水上作品としては、いまひとつ浅く感じられる。だが、一個のミステリーとして見たとき、本作は断じて失敗作ではない」と強く主張されているが、わたしも同感である。
本書の「テーマや題材」というのは、映画界である。ある映画会社の新進人気女優が、地方にできた直営映画館のこけら落としで挨拶に向かう途中姿を消し、まったく離れた河原で死体となって発見されたという事件が発端となる。そして彼女の衣服のポケットには、その河原の石とはまったく異なる特徴のある小石が詰められていたというのが謎となって読者に提示される。
細谷さんによれば、本作品のモデルとなった映画会社は新東宝だという。新東宝の社長大蔵貢と所属女優のスキャンダルが世の中を賑わせた直後に本作の連載が『週刊明星』で開始され、その挿話が取り入れられた。ピークを過ぎたものの、いまだ斜陽とも言えず、関心度がいまだ高かった映画界の裏側を題材に選んだという点、強い時代性がある。タイトルにある「虚名」とは、そうした映画界に関わる登場人物たちが求めた富と名声を指している。
松本清張が作品を通して表現した社会悪や人間のマイナス面の強調とくらべれば、たしかに映画界に身を投じて虚名を高めようとした人間たちを描くことは、社会悪としても人間性としても、強烈なものとは言えない。
また映画界を舞台にした点、それら社会が「虚名」を高める実効性を喪失してしまった現在においては、リアリティも稀薄化していると言わざるをえない。長く再刊の機会がなかったのも、そうした原因があるかもしれない。
とはいえ刑事たちが、殺害死体に詰められていた小石の出所や、被害者の足どり、容疑者の足どりを丹念に捜査しながら追いつめていく過程を細かく描き出していきながら、少しずつ謎が解きほどかれるというミステリとしての面白さは無類のものだ。とりわけ地元で捜査する刑事と、被害者の住む東京で捜査をする刑事二つの視点で、両側から推理が進み真実に近づいてゆくプロセスの醍醐味は特筆に値する。
一般的なネックになるとおぼしい60年前後の映画界が舞台である点についても、その当時の映画を好んでみているわたしにとっては、個人的にむしろ大いに関心を惹き寄せられるテーマであり、なるほど当時の映画界には「虚名の鎖」をつなごうとする人間が蝟集し、そこに犯罪が生まれてもおかしくないのだろうなあと思わせる。
一冊の単価が単行本並みに高くなっている現今の文庫本界にあって、光文社文庫は比較的安価な部類に属する(本作品は629円、『日本人の遊び場』は495円)。今後も光文社文庫に入る水上ミステリは要注目である。