血まなこで本を読む

日本人の遊び場

小玉武『『洋酒天国』とその時代』*1筑摩書房、→6/28条)の開高健を論じた章(第3章「開高健の〈雑誌狂〉時代」)のなかで、開高さんのルポルタージュは、彼が書いていた『洋酒天国』の特集原稿や巻末コラムの視点と共通するものがあったという指摘に惹かれた。「『洋酒天国』のコラムは都市に棲む人間の、普通はあまりよく見えないありのままの生態に触れ、その盛り場や酒場での微細な観察をもとに書かれている」(115-16頁)というのである。
そこでとくに挙げられていた開高さんのルポルタージュとは、『日本人の遊び場』『ずばり東京』の2冊である。このうち『ずばり東京』は読んでいるから(→2003/12/24条)、残る『日本人の遊び場』を読んでみたいなあと思っていたのである。
すでに文庫新刊情報で目に入っていたはずなのだが、迂闊にも気づかなかった。たまたま今月の光文社文庫新刊のなかに、当の『日本人の遊び場』*2を見つけたとき、何たる偶然と驚いたのだった。さっそく買い求め一読したのは言うまでもない。
小玉さんは『洋酒天国』でのコラムの背後にある観察眼の共通性を指摘していたが、これに加え、開高さんがひねりだしたウィスキーの宣伝コピーに共通するような、鋭い言葉の配列とその定義に唸った。

日本の空気は酸素と窒素とわびしさからできている。(9頁)
こんな殺し文句のような文章が冒頭に配された「ボウリング場」でガツンとやられ、ぐいぐいと惹き込まれる。
遊び場にいる日本人の横顔に、しばしば私は、疲れた家畜の優しさや、うつろさや、憂鬱を見る。人生の戸口にたったばかりの若者で、すでにそのような顔をしている人が多い。(57頁)
そしてむすびの一文「遊び場ルポのおわりに」では、昭和30年代の日本人がおかれていた状況がこのように犀利に切りとられる。
私の心のなかで何が閉じているのだろうか。山でも海でも、人の横顔がけっして心の底から眉や目をひらいているようには見えなかった。いつでも、どこでも、そうだった。(…)ひとことでいえば、血まなこである。血まなこで遊んでいるのだ。奇妙な表現だけれど、私たちは血相変え〝楽シイ!〟と叫んでいるかのようなのである。(203-4頁)
まあしかし、開高さんが見た日本人の血まなこで遊ぶという遊び方は、当時だけに限らないだろう。いまの自分も血まなこで遊んでいると言われれば否定できない。山口瞳さんではないけれど、仕事も一生懸命、遊ぶのも一生懸命、それも男の生き方だろうと思う。でも、血まなこで遊ばざるをえない日本人とは何なのだろう。奔流のように饒舌にたたみかける文体の直撃を受けながら、そんなことを考えた。
「ナイター映画」(いまのオールナイトのこと)の章では、徹夜で小林正樹監督の『人間の條件』を上映したら大入り満員だったという話が取材されている。これまた偶然、先日購った長部日出雄さんの新著『邦画の昭和史―スターで選ぶDVD100本』*3新潮新書)を読んでいたら、丸の内ピカデリーでは年一度恒例の『人間の條件』オールナイト上映があり、人気が衰えなかったとあった。
東映ヤクザ映画の土曜オールナイトは『人間の條件』オールナイトにヒントを得たと書かれていた。はからずも開高さんの一文は、ある時代の「はじまり」を敏感にとらえていたということにほかならない。
このように読んでいる本や買った本が偶然に連なっていくのは無上の体験である。本を買ったり読んだりしなければこうした体験は味わえないわけなので、興味がある本を買い、それをとにかく読んでいく、それも血まなこで、と心に誓うのである。