褒め言葉より毒を

座右の名文

高島俊男さんの『座右の名文―ぼくの好きな十人の文章家』*1(文春新書)を読み終えた。
本書は、メインタイトル(「座右の銘」の駄洒落なのだろう)にあるように、「名文」を書いた文章家を取り上げ、彼らがいかに名文家であるかを述べた本ではない。むしろサブタイトルにある「ぼくの好きな十人の文章家」が内容に近い。
帯には、漱石、鴎外、寅彦、茂吉らの、どの作品がどう好きか/面白人物評をまじえた/高島流「名作ガイド」」とあるが、「名作ガイド」というより、「どの作品がどう好きか」「面白人物評」という言葉のほうが雰囲気を伝えている。
そもそも本書の成り立ちは、『本の雑誌』に書いた「私のオールタイムベストテン」が発端だという。好きな本に限定せず、好きな著述家ベストテンを書いたところ、これに目をつけた編集者から、そこにあげられた一人一人についてもう少し詳しく書いてくれと依頼されて成ったのが本書である。しかも本書は高島さん初の語り下ろしという特徴がある。ただし「あとがき」によれば、話した文章を起こして整理する過程でかなり苦労されたらしい。
取り上げられている10人とは、新井白石本居宣長森鴎外内藤湖南夏目漱石幸田露伴津田左右吉柳田國男寺田寅彦斎藤茂吉。なかなか興味をそそる取り合わせではないか。
高島さんは、あげた人の著作すべてが好きだというわけではない。たとえば本居宣長ならば『玉勝間』が「断然おもしろく」「日本人が書いた筆記の最もすぐれたもの」だとするいっぽうで、その他の著作については「いやもうかなわんなと思うのが数々ある」と書く。
柳田國男についても、『遠野物語』は「近代文語文の最もすぐれた文章」と称揚するものの、全体的には柳田國男の文章との相性は悪いとする。わたしも同じく柳田國男の文章はすんなり頭に入ってこない(『遠野物語』は例外)。
好きな文章家について書いているのだから、だいたいが好意的な内容になっているわけである。そこに物足りなさをおぼえるのは、高島さんの本は毒を仕込んだ手厳しい批評を繰り出してこそ面白いと考えるゆえだろう。
もとより大好きだという寺田寅彦斎藤茂吉についての文章はとても刺激的で、影響されて寺田寅彦の随筆集や茂吉の『念珠集』などを読みたくなった。茂吉の文章や人柄から醸し出される滑稽感、諧謔感を高島さんはことのほか敬愛するようで、山形県人としては嬉しくならないはずはない。講談社文芸文庫に入った『念珠集』は買っているはずなのだが、本置き部屋のどこにあるのか見当がつかず、苛立ってしまった。そろそろまじめに本の整理を考えなければならないようである。
閑話休題。たとえば津田左右吉が、彼の恩人である澤柳政太郎の夫人と相思相愛のなかだったらしいと、彼の日記を読みながら推測して放ったひと言。

夫人はどういう人だったのかと写真をさがしたら、澤柳の息子が書いた父の伝記のなかで一枚見つけた。タヌキの顔にキツネの目をくっつけたような顔の美人でありました。(150頁)
美人とはあるけれど、やっぱりこれは褒め言葉ではないだろう。さりげなく放たれたこんな毒こそ、高島さんの本領だと思うのである。