師弟というもの

先生とわたし

由良君美という名前を知ったのはご多分に漏れず幻想文学ルートであって、フランス文学の澁澤龍彦、ドイツ文学の種村季弘両氏の著書にひととおり熱中して、さらに周囲を見渡せば、イギリス文学の由良君美という名前が自然に目に飛び込んできた。
種村さんは國學院大学で教鞭をとっていたけれど、澁澤と同じくどちらかといえば在野型の文学者という雰囲気だったのに対し、由良さんや池内紀さんは東京大学の先生でありながら幻想文学の世界をリードする*1存在であったことにわけもなく感動していた頃の純真さが懐かしい。
いまでもスライド書棚の奥には、由良さんの著書『みみずく偏書記』『みみずく英学塾』『みみずく古本市』3冊がひそんでいるし、所在不明ではあるものの、本置き部屋のどこかに、講談社学術文庫に入った『言語文化のフロンティア』があるはずだ。もっとも由良君美という知性の奔流に圧倒され、どれも通し読みはしていないように思う。
廊下にある文庫書棚に目を移せば、河出文庫で90年前後に出た怪談集シリーズがずらり並んでいる。そのうちの1冊が由良さん編の『イギリス怪談集』*2だ。90年3月5日発行の初版。帯もあるから、新刊で購ったのだろう。
由良さんの弟子四方田犬彦さんが書いた『先生とわたし』*3(新潮社)には、上でわたしが由良さんの世界にアプローチしたような、仏文澁澤・独文種村・英文由良と並び称された時代が70年代の潮流だったとあるが、とすればわたしは、そうした流れがかろうじて影響力を残していた時期にこの世界に親しんだということになる。澁澤はすでに87年にこの世を去り、由良さんは上記『イギリス怪談集』が出たのと同じ90年に亡くなっているから、その頃がタイムリミットだったわけだ。
由良君美という不世出の英文学者に心酔してその門に入った四方田犬彦さんは、由良さんから突然殴られたことをきっかけに師から離れていったという。その経緯が書かれた本であるという興味や、弟子が書いた由良君美という人物の評伝を読みたいという動機から購い、読み始めた本だったが、四方田さんが書きとめる一人の学者としての由良君美、一人の大学教師としての由良君美の像はあまりに痛々しく、読んでいて苦しくなってきた。
本書を師由良君美と弟子四方田犬彦の関係を、弟子の側からふりかえったクロニクルとして期待し、その部分の記述(第一章・第二章)は実にドライブ感に富んでいて、ぐいぐい読み進めていったのだが、君美の父である哲学者由良哲次の足跡をたどり、子君美が親との関係からいかに人間形成がなされたのかを論じた第三章や、師弟関係の亀裂に至った経緯をふりかえった第四章は重々しく、とたんに読むスピードが鈍った。
間奏曲・第五章と読み進めるにつれ、この本はたんに由良・四方田の師弟関係を綴るだけにとどまらない、師弟関係という人間関係の一パターンを普遍的なものとしてとらえ直し、その復権を目指そうとした意図が込められていたのかと気づいた。
70年代の東大駒場キャンパスにおけるリベラルな雰囲気、由良ゼミの梁山泊的な様相、本郷と駒場の対立、そこに根ざす学者たちの対立関係などなど、生々しい話はやはり面白いのだが、身につまされることもあって単純に面白いとばかりは言えない。
四方田さんは最後のほうで、自分に流れている由良君美の教えについて、このように書いている。

由良君美は神話原型論からユートピア思想まで、ロマン主義と希望の論理から終末論まで、また日本古典における韻律論から文化翻訳の原理まで、実にさまざまなことをゼミ生に教えた。だがわたしを含めてゼミ生が受け取ったのは、そうした文芸理論における最先端の方法論である以上に、彼が身につけている知的スタイルであり、書物を前にした道徳ともいうべきものだった。長い歳月を通して伝えられたのは、フランスの社会学ピエール・ブルデューであれば「ハビトゥス」と呼ぶであろう、人格化された行動の型なるものであった。(231-32頁)
わがことを顧みれば、同様にわたしも師の「ハビトゥス」を意識的無意識的に受け継いでいることに気づかされるし、これは自分では幸福なことだと思っている。
「間奏曲」のなかで四方田さんは、ジョージ・スタイナーと山折哲雄両氏の師弟論を読み込みながら、師と弟子の関係について考察をめぐらせ、そこに自分と師由良君美との関係を重ね合わせようとしている。
若い弟子に乗り越えられることに焦りを抱き、嫉妬心を燃やす。弟子は当初師を畏怖し、その醸しだすハビトゥスを意識的無意識的に自分の方法論のなかにとりこもうとするものの、一定の時間が経てば畏怖の感情は消え、師の呪縛から離れてゆこうとする。師弟とはかくも人間くさい関係であって、人文的教養の再統合のためには、そうした共同体(「親密で真剣な解釈共同体」)が不可欠である指摘する。
「大学で教鞭を執るということは、大学という巨大な組織のなかで、教師と学生が織りなす錯綜した政治関係のなかに、無防備に身を晒すことに他ならない」(230頁)と四方田さんは言う。大学という組織に身をおいていながら、わたしの場合幸か不幸かそうした関係とは無縁な、いわば“安全地帯”にいる。
「教師と学生が織りなす錯綜した政治関係」なんて御免こうむりたい、いまの環境こそ自分の性に合ったものと嘯いているわたしだが、さすがに本書を読んでいて胸騒ぎが起こり、居ても立ってもいられない心もちになってきた。
師弟関係といういくつもの共同体が星雲のように点在して成り立っている宇宙が大学、限定すれば文科系だとするのなら、インターネットによる知の拡散により稀薄化した現在の大学において、もはや“安全地帯”など存在する余地はないと、今さらながら気づかされたのである。

*1:東大のような大学は正統派だから幻想文学なんて歯牙にもかけないと勝手に思い込んでいた。

*2:ISBN:4309460704

*3:ISBN:9784103671060