脱線の妙味

退職刑事4

あれもこれもと読む気をそそられる新刊書に心動かされる状態がこのところしばらく続いている。本は買ったときがもっとも読みたいと感じるピークだから、新刊は新刊ゆえに「読む気」という意味ではもっとも新鮮であり、また高いお金を出して買ったという切実な問題もからんでいるゆえ、一冊読み終えてさて次に何を読もうかと考えるとき、最近買った新刊書を選ぶというのは、ごく自然ななりゆきだろう。
これが途切れると新刊時に買ったときの鮮度が薄れてしまい、いや、買ったときの読みたいという気持ちを忘れてしまい、あわれ積ん読本の仲間入り、しばらく日の目を見なくなる。
でも新刊ばかりたてつづけに読んでいると、積ん読の山にふと目をやって、そのあたりにかつてたしかに存在した「読みたさ」の情動を思い出してしまうということがないわけではない。たまにこのへんの本でも読んでみるか、そんな気持ちになるのである。
今回は、「最近都筑道夫さんの本を読んでいないなあ。久しぶりに読んでみるか」、突然そんな気持ちになった。精進ゆえかはたまた気力減退ゆえか、最近は誰の影響も受けなくなってきているので、取り立てて何か都筑さんの本を読みたくさせるような文章に触れたわけでもなかった。
そうして選んだのは短篇シリーズ『退職刑事4』*1創元推理文庫)だった。これまで第1冊から第3冊まで、順番に読んできた記録をふりかえると、見事に1年1冊ペースになっている。最初に読んだのは、懐かしや熱と頭痛がひどく近くの病院に入院したときだった。

今回の第4冊目には、8篇の短篇が収められているが、これまで以上に“脱線度”が顕著になっていたように思う。“脱線度”というのは、退職刑事たる父と、現職刑事たる末っ子との対話のなかで、父の話に昔話が多くなり、それがいかにも都筑さん好みの話題になっているという意味である。その脱線もペダントリー一歩手前のところで踏み止まっているから、読んでいて微笑ましい。
たとえば冒頭の一篇「連想試験」では、息子が出した連想問題に対する親父の回答が面白い。「銀座」に「夜店」、「風呂敷」に「志ん生」とくる。そして「キング・コング」では、かつて子供のときに「早稲田の市電の終点にあった小屋」で観た記憶を思い起こし、早稲田から神楽坂にかけてあった映画館がずらりと登場する。これはあの近くに住んでいた都筑さん自身の記憶でもあるだろう。
また次の「夢うらない」では、退職刑事の親父が最近妙な夢を見るという会話から話が始まる。「きょう見たんじゃあ、六代目が鯛焼屋をやっているんだ。店の名前が、音羽屋ときている」というもの。なぜ夢に六代目が出てきたのかという理由をあれこれ考えているうち、息子が、いま担当している事件の犯人も尋問のとき夢の話をすることがあると言い出して、その犯人の夢の話の分析に話題が移ってゆく。
でも最後にはきちんと「鯛焼屋の六代目」にオチがつけられるから見事で、それも「六代目」の何たるかを知らないとあまり面白くないから、とりあえず知っているわたしとしては読んでいてニヤリとなる。
第4冊では、退職親父の友人でもある推理小説作家椿正雄がよく登場し、書きかけのミステリを完成させようとしたり(「あらなんともな」)、自分がかつて知人に贈った本がめぐりめぐってふたたび自分の手もとにやってきたとき、そこには謎めいた書き込みがあったなど(「著者サイン本」)、本好きをくすぐるような好短篇が揃っている。
このシリーズは、犯人探しのようなミステリとしての王道をいくものではなく、いろいろな意味での謎解きを退職・現職二人の刑事の対話のなかで愉しむというものだから、退職さんのほうの脱線ぶりに期待するのも、別に間違っていないのである。とくに都筑道夫という作家の個性を感じさせるようなこんな脱線話に惹かれてしまう。

「ところが、わたしの経験じゃあ、日本人には雨や雪だな。陰気で寒いと、くさくさする。そこへ、酒でもなんでも、火をつけるものがあれば、爆発するんだ。戦争ちゅうに、雨が二日ふりつづくと、女を殺すやつがいたよ。二日目の晩にね。出征兵士の妻が、ふたりもやられたんで、発破をかけられたものだ」(195頁)
「コヒナタか。地方からきた役人が、そう読むことに、きめてしまったようだがね。あそこは、コビナタだよ。大塚署の管内には、関口台町小学校、小日向台町小学校というのがあったが、子どもたちはセキダイ、コビダイと呼んでいた。コヒダイだったら、東京の人間には、発音できないさ。(…)とにかく、わたしも同僚も、むろん、あのへんのひとたちも、コビナタといっていた。コヒナタなんぞといったら、笑われたよ」(262頁)
わたしが使っているATOKでは、「コヒナタ」でも「コビナタ」でも「小日向」と変換できた。はたしてどちらが正しいのだろう。