パトロネージあれこれ

パトロンたちのルネサンス

最近何かと話題の「グッドウィル・ドーム」やら、「ヤフー・ドーム」、「フルキャスト・スタジアム」のような命名権売却による野球場の名称変更、これらはいわゆる「冠スポンサー」同様、宣伝広告を見込んでお金を払い、企業名などを頭に付けたものだろう。それでは、近代の商業主義的な宣伝広告と、パトロネージ(パトロネージュ)はどう違うのだろうか。
国立大学が法人化されて以来、予算の一部を競争的資金でまかなうことを余儀なくされ、足りない部分を「寄付」というかたちで募るような動きが活発になってきている。関東大震災後に建てられた東京大学の「安田講堂」などは大学に対する寄付のもっとも有名なものだろうし、この数年間にも、○○ビルやら△△ホールといった、寄付者の名前を冠した研究教育棟が続々と建てられつつあるけれど、こうした寄付行為は、パトロネージの延長上にあるものととらえるべきなのか、商業主義的な宣伝行為をも射程に収めるべきなのか、判断がつかないでいる。
前々から芸術家とパトロンの関係、パトロンの社会史的な存在形態、パトロネージの思想史に興味を持っていたこともあって、最近出た松本典昭さんの新著パトロンたちのルネサンスフィレンツェ美術の舞台裏』*1NHKブックス)はわたしにとって絶好の「パトロン入門書」となった。
本書は、ルネサンス美術を芸術家中心に見るのではなく、作品を芸術家たちに発注したパトロンたちの動きを捉えることで、新たな「パトロン中心の美術史」を構想した刺激的な本である。実際この時期の芸術家の創造性は、パトロンによる資金提供と、それと不即不離にある注文内容にいちじるしく規制されていた。この時期の美術史を見るうえでパトロンの存在を欠落させることはできない。
フィレンツェといえばメディチ家。15世紀から16世紀にかけての、イタリア、さらにヨーロッパにおける共和国フィレンツェの政治的動向は、メディチ家の盛衰を描くことなしには語れない。また、この時期に胎動するルネサンス美術もまた、政治的動向と深く結びつき、また、政治を動かす権力者のパトロネージを考えないことには始まらない。
なぜこの時期の富裕な市民層は、商業活動などで得た財をこぞってパトロネージに費やしたのか。稼いで財を増やせば増やすほど罪意識が深まり、地獄落ちが待っている。商業の発達によって財を蓄える者の出現と、キリスト教社会における蓄財の罪悪感という矛盾を解消するために編み出された新たな倫理観、それが「清く正しく消費する」という倫理コードであって、宗教的義務として教会・修道院などに財を寄進する行為へとつながってゆく。
かくして宗教的な空間が基盤となって、この時期の芸術が花開く。ただしあくまで主導権はパトロンのほうにあった。絵を描いたり、彫像を作ったりする人間は「職人」であって、作品の芸術的価値によって報酬が上下することはなく、現在の芸術的尺度から見れば、不当に安い報酬で傑作群が創り出されていったのである。
そんなパトロンと芸術家の力関係が揺らぎはじめたのが、ダ・ヴィンチミケランジェロが活躍した時代あたりからだったらしい。彼らはパトロンの製作依頼を受けても、さらに自分を高く「買う」パトロンがいれば、途中で製作を放棄して他の依頼主のいる都市へと流れてゆく。少しずつ芸術家の意志がパトロンの注文という力を凌駕し始める。そして生み出された作品もまた異なった尺度で価値づけられてゆくことになるのだろう。
有名なボッティチェリの「春」や「ヴィーナスの誕生」は、もともとメディチ家の別家の依頼により製作され、その邸宅に飾られたものだったという。パトロンがあって、そのパトロンの屋敷に飾られることを前提にして描かれた絵。宗教画などには、パトロンたちの肖像がさりげなく描き込まれている。現代では美術館にあって美術作品として鑑賞されるものである芸術作品は、注文−製作の歴史的経緯を鑑みれば、なかば本来の意図を失った「死に体」の作品として、わたしたちは観ていることになるのである。
以前書いたように、ヨーロッパ中世絵画を「観者の空間」(→2/26条)を意識して考えること、そんな眼を養うためにパトロネージという枠組みは欠かすことができない。