大過なく、とにかく大過なく

停年退職(上)

若者には未来がある。とこう言えば、物理的な時間としての「未来」なら、長短違うだけで若者にだって年輩者にだってあると反論できる。ならばこう言い換えよう。若者には、予測できない未来がある、と。
もちろんこれにだっていかようにも反論可能だ。人間である以上、死という最終的なゴール地点がわかっている以外、誰の未来だって予測できるはずもない。
としたら、ふたたびこう言い換えるとするか。年輩者は若者と違って、未来を予測できる材料が揃っている。身も蓋もない言い方をしてしまえば、先が見えている。若者にはそうした材料に乏しいので、自分の行くすえがどうなるのか、予測するのがむずかしい。
要するに何が言いたいのかといえば、「停年」(定年)の話である。停年のない職業は別にして、わたしもまた一介の給与生活者に過ぎないから、給与をもらえる年齢制限が設けられている。それが「停年」であって、どんな仕事に就くかすら予測できない若者には、当然「停年」を迎えた自分の姿も想像できまい。
わたしの場合、あと25年ほど「大過なく」勤めれば停年を迎える。そのとき自分はどうなっているのだろう。停年という定まった節目に焦点を定めて未来を想像することは、現実性を帯びている。若者にはない(あまり喜ばしくない)「特権」であろう。
あと25年なんて、まだまだ先だと思うなかれ。大学に入ってからいままで過ごした時間とそう変わらない年数なのである。大学入学から現在までをふりかえって、あっという間と感じたのであれば、停年を迎える年齢までもあっという間である。
停年を迎えた自分の風貌がどう変じているかを想像するのはさすがにむずかしく、想像したくもない。ただ、停年を迎えたときの送別会で、職場に感謝の言葉を述べるのか、恨み言を述べるのか、「イヤダカライヤダ」と出席すら拒否して去るのか、そんな具体的なふるまいを想像してしまうことが、ないわけではない。
優秀な人であれば、停年を迎えたあとも、さらに停年年齢が長い別の職場に再就職することは可能である。でもそれはひと握りの選ばれた人たちであり、わたしがそれに該当するはずもない。辞めたあとどうなるのだろう。どうすればいいのだろう。そんな思いが頭をよぎることがある。かといって今からそれに備えて貯えているわけでもないのである。
子供も成人しているし、わたしか妻の実家のある東北地方に戻ってのんびり過ごす。そんな選択肢を選ぶことが理想だが、そのときまで、それぞれの田舎に、実体としての「実家」が残っているとは思われない。東京での仕事をリタイアして新たに東北に住み始めた人ということになるのだろう。
なぜこんなことを考えたかといえば、源氏鶏太の長篇『停年退職』*1・下*2河出文庫)を読んだからだった。来るべき団塊の世代の大量退職を狙ったタイムリーな出版企画であることは見え見えだが、そうだとしてもこの小説が再刊され手軽に読むことができるようになったことは喜ぶべきことだ。だって読んでいてとても面白い小説なのだから。上下巻800頁を超える大長篇だったが、ページをめくる指が止まらなかった。
停年退職があと半年後に迫ったサラリーマン課長が主人公の物語。課長で停年を迎えることで、社内の出世競争をふりかえり、退職金の多寡に思いを馳せる。同じ職場に嘱託での再就職を望むけれど、それも望み薄。再就職先はなかなか決まらない。この先どうやって暮らしてゆけばいいのだろう。
妻には5年前に先立たれた。大学生の息子がいて、OLをしている娘がいる。娘の結婚も気になっている。自分にも気になる女性がいないわけではなく、先方も自分に好意をもってくれているらしい。決意すれば再婚も可能だ。でも子供たちのことを思うと簡単に決めかねるし、そもそも再就職ができなければ、再婚生活だったままならない。
前半だらだらと書いてきたように、この小説には、読者に「わが停年」を想像させる強い力がある。読者だけでない。主人公の後輩社員だって、停年間近に迫った主人公の身を思いやり自分の停年の姿を想像する。作中人物がそれぞれ自分の停年という「未来を想像できる材料」に基づいて、それぞれの停年を想像する。それを通して読者もわが停年を想像する。
物語は、主人公の人柄を慕うようになる後輩青年社員と自分の娘の恋のゆくえや、部下のOLの不倫問題が絡んで、ほろ苦くも爽やかに主人公の停年の日へ向かって進んでゆく。主人公が会社員生活最後の日に、机を撫でながら思っていたのは、大過なく、とにかく、大過なくであった……」という思い。そして停年後も「大過なく」過ごしたいという希望。
本書は1962年に朝日新聞に連載されたという。「サラリーマン小説」の書き手として、サラリーマンが直面するさまざまな問題を取り上げるなかで、たまたま発想されたテーマだとしても、高度経済成長期にさしかかって輝ける未来のことだけを考えていた日本社会において、源氏鶏太がすでに停年退職という問題を主題にこのような素敵な小説を書いていたとは驚きである。
45年も前の小説なのに、まったく色褪せず主人公に感情移入できるのは、停年退職という社会の仕組みがいまなお有効だからだろうし、前述したような「想像力」を発動させる力があるからにほかならない。そして何よりも登場人物の爽やかさと、勧善懲悪的なストーリー、読後のすっきりとした後味が、長篇を読み終えた快感を倍増させてくれる。
源氏鶏太はこれからも追いかけつづけていきたいと思わせる小説家なのだった。