幸田文を読む豊かな時間

さざなみの日記

その人の文章を読むと、心に余裕が生じ、豊かな時間を過ごしていることを実感させられる作家が何人かいる。そのうちの一人が幸田文さんである。
ならば年中幸田作品を読んでいればずっと心豊かにいられるだろうにと言われると反論のしようがないのだが、なかなかそう簡単にはいかないのである。先年岩波書店から出た(第二次)全集を購入して、いつでも幸田作品を読むことができる環境にあるにもかかわらず、幸田作品を読もうと本を手に取り、活字を追い出す目の前にはなぜか高いハードルがあって、なかなか読めないのだ。
でもいったん読み出すと不思議に惹き込まれ、「ああ読んで良かった」と心豊かになり、さらに「もっと読みたい」という欲求にもかられる。ただ読み終えるとまた最初の気持ちに逆戻り。…
講談社文芸文庫に入った『さざなみの日記』*1は新刊で購入したというきっかけがあったゆえか、案外上のような逡巡を経ずに自然体で本を選び、読み始めたような気がする。
十日ほど前、ゴールデンウィークの前半と後半の連休にはさまれた平日のこと、昼休みも満足にとらず忙しなくしている自分に驚き呆れ、どれ弁当でも提げて公園に行き、ゆっくり本でも読もうかという気分になったのも、五月の爽やかな陽気と『さざなみの日記』のおかげだったかもしれない。
多緒子と緋緒子という母娘の二人所帯。緋緒子は妙齢で母多緒子は娘の片づき先がそろそろ気になってくる。そこに石山さんという、これも寡婦のお手伝いさんが絡み、緋緒子に縁談が舞い込んで…という物語。九つの短篇が連なって、女三人の暮らしが四季の移り変わりとともに描かれる。
最初の一篇「訪問客」にある、本書の題名の由来となった文章がまず見事。

過去数年、そして今のところずっと見透して、近い先ゆきに何か特別な一大事件が発生しそうなけはいもないけれど、毎日まるでなんにもないことはない。明るく晴れている海だって始終さざ波はあるもの、それだから海はきらきらと光っている。後家根性なんかは母親に属する一トさざ波だが、娘も朝から晩までに何度きらつくかわからない。あなやという大事件につぎからつぎと見舞われるうちもあるらしいが、ここのように目ざましいことがなくて平凡なさざ波が寄せているうちは、ここにもあそこにもきらきら、又きらきらしていることとおもう。(9-10頁)
こんな文章を読まされたら、木もれ日がそそぐ公園のベンチで閑雅な気分にひたりたくなるじゃありませんか。
ところでこの「訪問客」では、上に引用したように、最初のうちは母親は「母親」という名前でしか呼ばれない。「母親」と娘としての緋緒子の物語と思わせておいて、20頁ほど読み進めると、やおら「母親は――いや多緒子は」と名前に切りかわる。この呼吸の鮮やかさに息を呑む。まるで歌舞伎の座頭役者が最初のうち顔を見せずに芝居をして、さてという呼吸で舞台の客に顔を見せ、大向こうから「○○屋」のかけ声がいっせいに飛ぶ、そんな意気なのである。
幸田文さん独特の言い回しや、江戸っ子幸田家の暮らしぶりが想像できるような家庭生活の情景を読むと、宝物でも見つけたように心の底から嬉しくなる。200頁に満たない薄い文庫本であるが、読中読後の充実感は十日経っても消えていない。