印象的な自画像三作

靉光展

金曜日は夜20時まで開いている。仕事を無理矢理片づけて竹橋に向かう。
靉光の作品はそれほど多くないそうだが、そのなかで130点ばかりを集めた大回顧展となった。これまで自分が書いた文章を検索すると、この東京国立近代美術館の常設展(所蔵作品展)でたいがい展示されている同館所蔵「自画像」がいいと繰り返し書いている。
自画像は晩年(靉光は38歳で戦病死した)に描かれており、ほかに2点、計3点が今回の展覧会の最後の部屋に並んで掛かっていた。並べられたものをあらためて見て、やはり「いい」。一番左にあった、帽子をかぶる自画像が一番アゴを突き出し顔が斜めになっている。右にいくほど真っ直ぐになっているが、一番惹かれたのは、真ん中の眼鏡をかけた自画像(「梢のある自画像」)だった。
洲之内徹さんは、『帰りたい風景 気まぐれ美術館』*1新潮文庫)のなかでこの「梢のある自画像」を取り上げ、靉光の自画像についてこんな素晴らしい評言を残している。

靉光は三点の自画像を残して、兵隊にとられて戦場へ行き、戦争が終ってからもすぐには帰して貰えず、上海の野戦病院で餓死同然に死んでしまうが、彼の残していった自画像には、「われわれ」などというあやふやなものはひとかけらもない。代りに、ひとりの男の、言葉にはならない無限の思いだけがある。それが画面の裏に籠って白熱化している。だが、これが芸術というものではないのか。(「羊について」)
靉光といえば、チラシにも掲載されている東京国立近代美術館所蔵の「眼のある風景」のシュルレアリスティックな作品が強調されがちだが、今回たくさんの作品を観ていると、そのような作風の作品はかならずしも多くない。
花や果物を描いた静物画や、動物や虫を描いた絵が多い。動物など動くものを描いた作品は、デッサンにせよ構図が独特でぐぐっと惹かれるものがある。植物を描いた作品は、葉の色が緑でなく青を使うという色彩感覚にしびれた。
けっこう画風が変化する画家であり、初期の、ロウやクレヨンに岩絵の具を混ぜたという独特なマティエールを醸し出した「ロウ画」のデザイン感覚がわたし好みだった。

さすがに特別展で足が疲れたので、この常設展はさっと流す。良かったのは、柳瀬正夢門司港」、木村荘八新宿駅」、松本竣介の「並木道」。戦争画では藤田嗣治の二枚の大パネルに描かれた「南昌飛行場の焼打」という大作が印象的。この作品、先だっての藤田嗣治展には出ていなかったはず。版画コーナーの畦地梅太郎特集では、新潮文庫山本周五郎作品の装画を思い出したり。
竹橋の本館と工芸館、フィルムセンターの展示室を1000円で一年間見放題という「MOMATパスポート」というものが発売されたことを知り、早速購入した。たぶん竹橋には常設展を見に一年で何度か足を運ぶだろうし(一回420円)、また、フィルムセンターの展示室では、秋までに三期に分け「スチル写真でみる日本の映画女優」という展示もある(一回200円)。十分元が取れるとふんだのである。
疲れ切ってはいたが、初夏に近い涼しい夜の空気のなか、お堀とその向うが暗闇に包まれているのに対し、毎日新聞社その他のビルの明かりを見ていると気分が良くなり、小川町辺まで歩いて帰った。お濠端には勤め帰りのサラリーマン・OLとおぼしきランナーたちが、黙々と走っている。この季節、走っていても気持いいに違いない。
途中バス停に「荒川土手行」の文字を見つけた。この行き先のバスはわたしの職場近くも通る。こんなところも通過しているのかと、もし時間が近ければ乗ってみたい衝動に駆られたものの、時刻表を見たら残念ながらちょっと前に行ったばかりだった。また今度にしよう。