古本は向こうからやって来る

小林信彦60年代日記

秋田で泊まっているホテルの近くに、失礼な言い方だがデパートの抜け殻のような建物がある。かつてデパートだったとおぼしくむやみに箱は大きいのだが、いまは小さな専門店が間借りする複合商業施設のようになっていて、上の階には公共施設も入居しているらしい。
やれ表参道ヒルズだのそれ東京ミッドタウンだのといった東京のバブル的建築ラッシュの裏側に、郊外型巨大商業施設による旧市街の空洞化という、地方都市によく見られる現象を指摘するのはたやすいが、同じような東北地方日本海側の町出身のわたしとしては、痛々しくて暗然となる。なんて、ミーハーとして東京の新名所に一度は訪れてみたいし、たまに帰省すると郊外型店舗の恩恵をこうむっているくせに、そんなこと言えた義理ではないのである。
仕事を終えホテルに戻り、部屋に荷物を置いて、さて外に出てメシでも食べよう。昨年秋出張で訪れたときには同僚と一緒だったので、秋田市の飲食街川反(かわばた)に繰り出し、ハタハタや比内地鶏のきりたんぽ鍋、しょっつるいぶりがっこ、とんぶりなど秋田名物を存分に味わったけれど(悔しいけど秋田の食べ物はわが山形以上に美味しい)、今回は一人なのでそういう飲み屋に入る気にならない。
ふつうの定食屋でいいからと外に出てまず目についたのは、前述の「抜け殻」にあった「Book 買い取りします」という看板だった。ということは新古書店でも入っているのか。ちょっぴり期待を抱いたので、こういう建物は閉店時間も早そうだと食べる前にのぞいてみることにした。
中にあった店は全国展開もしているブックマートであった。といっても大きなワンフロアのほんの一角を占めるだけの狭いものだったので、見た瞬間「こりゃダメかな」と感じた。
ところが古本とのめぐりあいというのは不思議なもので、こういうとき、こういう店に限って、掘出物があったりするのである。
見つけたのは小林信彦60年代日記』*1白夜書房)だった。同書のちくま文庫版を長く探していて、ブックオフなどに立ち寄ると、ちくま文庫が並んでいる場所の前に立ち、いつもこの本のタイトルを頭に浮かべるほどだった。この本を読んでいる人の記録を見たりするたび、喉から手が出るほど欲しくなる。
先だってのちくま文庫の復刊フェアでは、本書が復刊されないかと期待していたけれど、ラインナップに入っていなかった。余談だが、最近ちくま文庫が面白くない。と思っていたら、先日さる同僚と話をしていたとき、「ちくま文庫がつまらなくなったんじゃない?」という話になった。わたしと似た傾向の好みを持つ方なので、やはりこれは自分だけがそう思っているのではないのだ。まあ毎月同文庫に使うお金を別に回せるようになったのだから、よしとしようか。
閑話休題。『小林信彦60年代日記』のちくま文庫復刊は叶えられなかったわけだが、ネット古書店を検索すれば、想像するほどべらぼうに高い古書価がついているわけではない。千円台からせいぜい二千円台である。だから読みたければ手が届くのだが、それでは面白くないのでそのままにしていた。
だから今回の秋田での出会いは、まさに我慢した甲斐があったというものだった。しかもカバー・帯付で300円。ごくふつうの雑本のなかに端然と並んでいた。ちくま文庫版がその程度だから、今回手に入れた元版だって、それほどの稀覯書というわけではない。やはり千円台から二千円台で買える。
それを300円で買えたということで嬉しいのはもちろんだが、それ以上に本好き魂を満足させたのは、出張で訪れた地方都市の、しかも賑やかとはとても言えない旧市街のさびれた「抜け殻」の中に古本屋(新古書店)を見つけ、のぞいてみようと気まぐれに足を向け、まったく期待せずに棚を見回ったそのなかで出会ったということである。
この出会いこそ、本好き冥利に尽きるものではなかろうか。年に一度、いや数年に一度そんな体験ができればいい。そしてそんな体験を味わうたび教訓のように思うのは、「古本は向こうからやってくる」という格言(?)。差し迫った必要もないのに慌ててネット古書店で入手しようとしたり、ガリガリとせわしなく古書店まわりをした昔のわたしは何だったのだろう。
もちろん昔はその本が欲しいという熱い思いがそうした行動に走らせたわけで、その行動そのものを否定したり批判したりするつもりはない。いまのわたしは「向こうからやってくる」本を静かに待つ、古本についてはそんな気持ちであって、その気持ちにふさわしい出会いを素直に喜ぶだけなのである。
思わず古本の話で気分よく幕を閉じそうになったが、夕食のことを書くのを忘れてしまった。結局「餃子の王将」のような定食屋はなく、居酒屋を兼ねたラーメン屋で味噌ラーメンを食べたのであった。秋田の食べ物は美味しいのだが、「ふつうの定食屋」が町の中心部にさっぱりないのはどうしたものだろう。