婦人雑誌の作家たち

『婦人公論』にみる昭和文芸史

年度末恒例となった(?)秋田出張にて、いまホテルでこれを書いている。東京は上着すらいらないポカポカ陽気で桜も満開、すこぶる気分のいい春の一日だった。でも天気予報を見ると秋田の最高気温は10度だという。陽気な東京でコートを着て歩くのは狂気の沙汰なので、やむを得ずコートをたたんで鞄に詰めこんだ。
新幹線に乗車してまず上着を脱ぎ、次にシャツの袖のボタンを外して腕まくりをする。それでも暑い。けれども新幹線が北上してゆくたびに、外の冷気が窓ガラスを通して伝わってきて、徐々に室内が冷えてくるのがわかる。盛岡あたりではなんと一面真っ白な雪景色だった。それほど積もっているわけではないが、たぶん盛岡でもこの時期の雪は珍しいのではあるまいか。車内も寒さを感じるほどになり、思わず上着を着た。
桜満開の東京から雪景色の盛岡まで、三時間足らずでこうも違う。雪景色は雫石あたりまでで、逆に日本海側の秋田県に入ると雪はまったくない。桜で有名な角館も、満開まではたぶんまだまだ時間がかかるのだろう。
車内では、電車本にしていた森まゆみさんの新著『『婦人公論』にみる昭和文芸史』*1中公新書ラクレ)を一気に読み終えた。戦前の谷崎潤一郎(『細雪』)から、戦後の有吉佐和子(『香華』など)まで、創刊90年を迎えた『婦人公論』誌に掲載された小説を読み込み、作品が発表された時期の世相と、それぞれの時期の『婦人公論』誌の性格、そこを通して見えてくる女性のあり方をうかがういっぽうで、作品を書いた作家のポルトレを描くという意欲的な一冊。
帯に「現代文が断然面白くなる入門の書」とある。これにはがっくり。別に森さんはそういう意図で書いたわけではなかろうに。そうした触れ込みでなければ、「昭和文芸史」と多少堅めのタイトルがついた本は売れにくいのだろうか。
登場する人物は23人。このうち女性は9人。半分以上が男性作家である。森さんは彼ら男性作家の作品に見える“女性観”に批判的なまなざしを向け、それらの文章を平然と掲載する高級女性誌婦人公論』の性格に思いを馳せる。
タイトルにある「文芸史」という言葉から想像されるような客観性は稀薄で、むしろけっこう森さんの主観(好き嫌い)が強く発揮されており、読者としてはそんな森さんのいちゃもんとも言える批判を楽しめばいい。伊藤整(「女性に関する十二章」)や亀井勝一郎(「美人論」)、川端康成(「美しさと哀しみと」)、三島由紀夫(「音楽」)、松本清張(「霧の旗」など)はこてんぱんにやっつけられている。
森さんの舌鋒は女性作家にも及ぶ。平林たい子への批判などは印象深い余韻を残す。ただ、佐多稲子・野上彌生子・宮本百合子幸田文宇野千代らは森さん偏愛の作家とおぼしく、そのまなざしも羨望というものに近い。男性作家でも、堀辰雄木下順二室生犀星らには好意的で、そのへんの好き嫌いの差が何とも面白い。
石川達三(「稚くて愛を知らず」)が意外に好意的な評価を得ていたので、またまた気になってきた。
いっぽうお気に召さない代表が松本清張かもしれない。新珠三千代にぞっこんで、『婦人公論』連載の「砂漠の塩」のためのアラブ取材旅行に新珠三千代を伴った(出発する飛行機のタラップで見送りの人びとに手をふる二人の写真が掲載されている)ことや、別の連載「絢爛たる流離」のタイトルページには、毎号新珠さんのアップの写真が掲載されていることに、小説は面白いのに、「私の感興は一気にシラケた」「いくらお気に入りといっても、ねえ」、とつぶやく。
まあここはやはり、森さんも書いているように、「作家のワガママが利く時代、取材費が潤沢だった時代」という時代性を見るべきだろうし、それを可能にした松本清張という作家のパーソナリティを考えて納得すべきなのだろう。
全体的に、この松本清張の章にあるように、考えが古いとか、男権主義的ということで切り捨てられてしまうのが物足りないと言えば物足りない。そういう言説がまかり通った時代性を『婦人公論』誌の社会における位置づけとあわせて考えるといった社会史的な掘り下げがあったら、もっと刺激的だったろうにと残念だが、隔月掲載の忙しいスケジュールで毎回違った作家を取り上げなければならなかったのだから、ないものねだりなのだろうか。