偏狂的学究の徒の弱点

偏狂者の系譜

このところ自宅読書用の本と電車読書用の本の境界線がなくなりかけていて、文庫本に限らず、大きめな本であっても電車に持ち込んで読むことを厭わなくなっている。様々な原因で自宅読書の時間が取れず、読書の空間がもっぱら電車内に限られてしまっていることが大きい。
電車読書ということで文庫本ばかりを読んでいたら、せっかく買った単行本が読めなくなるのである。二元的だった読書系統が一元的になり、とにかく場所は二の次にして読みたい本から読む“非常時体制”を敷いている。
先日ラピュタ阿佐ヶ谷に「東京の人」を観に行ったとき、そんな理由もあってもう少しで読み終えるところまで来ていた2冊の本をリュックに入れたところ、行きの電車内で2冊とも読み終えてしまった。昨日の『小学五年生』と一昨日の『名探偵たちのユートピア―黄金期・探偵小説の役割』がそれだった。
帰りの電車が手持ちぶさたになるので、映画を観終えてから阿佐ヶ谷駅ビル(ダイヤ街)に入っている文公堂書店に立ち寄り、何かめぼしい新刊本がないか探したところ、おあつらえ向きの本を見つけた。松本清張「昭和30年代粒ぞろい短篇集」の第三弾にあたる『偏狂者の系譜』*1(角川文庫)である。
第一弾『男たちの晩節』*2はすでに読んだ(→2/1条)。久しぶりに電車を乗り過したほど、面白い短篇集だった。むろん第二弾『三面記事の男と女』*3も買ってあるのだが、それからずるずると一ヶ月が過ぎ、第三弾を先に読むことになってしまった。
さて今回の第三弾は、解説の郷原宏さん名づけるところの「学究物」に分類される4作が収められている。「笛壺」「皿倉学説」「粗い網版」「陸行水行」である。このうち別の短篇集(新潮文庫版)で既読なのが「笛壺」「陸行水行」2篇。半分が既読であるのを承知で電車本用に買ったのには、もちろん理由がある。
既読のうちの一篇「笛壺」が、現在わたしの勤めている職場と深く関係するからである。学士院賞まで受賞した日本史研究者が変な女にひっかかったすえ、妻子のいる家庭を捨て零落し、深大寺蕎麦屋に入って来し方を回想するという内容。
九州で中学の教師をしていた主人公は、当地に調査にきた所長の知遇を得る。そのさいの案内役として発揮された能力を所長から認められた彼は、所長の肝いりで所員として勤めることになるのである。初読のときはさすがに驚いた(→旧読前読後2000/7/26条)。

あの本郷の赤門から入ってすぐ左にとっつきの、電車通りから見れば高々と伸びた銀杏の樹に飾られた史料編纂所の建物の入口を、俺は胸一ぱいの感慨と希望をもって入った。建物の内部は外からの見かけによらず暗いが、その暗さも数万の貴重な古文書がつくった影のように思え、随喜の涙をこぼした。(14頁)
「建物の内部は外からの見かけによらず暗い」なんて、現在も外の人はそういう印象を受けるに違いない。松本清張も利用した(あるいは見学した)ことがあって、そのときの印象そのままなのかもしれない。
それはともかく、その後この小説にはモデルがいるという話がある。所長の名前は教えてもらったのだが、肝心の主人公はいまもってわからない。まああまりいい話ではないから、無理に詮索しないほうがいいだろう。
あらためて「笛壺」を再読すると、三十数ページの短い小説で、あっさり終わってしまったのには拍子抜けした。初読以来、もうちょっと長めだったという印象があったからだ。よほど自分の職場が出てきたことが衝撃的だったのだろう。
官立大学を退官したもののその後はパッとせず、弟子からも疎んじられつつある老脳心理学者の妄想を主題にした「皿倉学説」でも、主人公の老学者は不倫のすえ家庭を捨てた人物だ。でもやはり「笛壺」同様、そこまでして一緒になった愛人ともうまくいっていない。偏狂的に学問に没頭する学究の弱点は女なのだろうか。
「笛壺」「皿倉学説」「陸行水行」が、中央の権威ある学者と地方のアマチュア学者、もしくは学界でも主流の学者と傍流の学者の対比が描かれる。もちろん松本清張はアマチュア側にシンパシーをもって、中央の(主流の)学者に対するルサンチマンをぶつけている。
これら「学究物」に対し、第二次大本教弾圧について、それを摘発する警察官僚の視点から描いた「粗い網版」が異色で面白い。この時点ですでに大本教不敬罪で一度検挙され、裁判が終わっているため、一事不再理の原則により同じ罪での摘発ができず、何を根拠に教団を摘発しようかと教団の資料を細かく検討する主人公の苦悩。その資料の一つ一つが「粗い網版」にたとえられ、これらを近くで見ていてもたんなる点にしか見えないというのがタイトルの由来である。すぐれた着想のタイトルだ。
一人の警察官がこつこつと捜査にあたる様子を追いかけたという意味では、かの「張込み」にも通じる面白さを持っているのだが、例によってと言うべきなのか、あるいはもともとの落とし所がここなのかわからないが、尻切れトンボのようにあっさり結末を迎えてしまったのがもったいない。これを膨らませると、遺作『神々の乱心』(未読)になるのか。ちょっとそちらに心が動きはじめた。