老後の再読・再発見のために

名探偵たちのユートピア

石上三登志さんの『名探偵たちのユートピア―黄金期・探偵小説の役割』*1東京創元社)を読み終えた。
例によって大学生協書籍部は入荷してくれない。しばらく様子を見ているうち我慢の限界を超えたので注文し、ようやく入手するという経緯が今回もあったけれど、読み終えたいまになっては、こんな苛立ちなど吹き飛んでしまった。すこぶる刺激的で面白い本だったからだ。
映画評論家、漫画評論家でもある石上さんは、いっぽうで子供の頃からの「探偵小説」好きであり、18歳の頃には自ら海外ベストテンを編み(実際は15作をラインナップ)、また江戸川乱歩の仕事にならってトリック類別をも試みたというマニアでもあった。そんな筋金入りの探偵小説マニアが齢を重ね還暦を迎えたあと、あらためてかつて熱狂させられた作品群を読み直すと、どんな感想が生まれてくるのか。…
すると再発見につぐ再発見、いや新発見、だから「本読み」はやめられない。再読して再発見をするためには、あたりまえだがまず「初読」という階梯が欠かせない。若い頃に読んだ本を、年齢を重ね分別がついてからあらためて読み直して得る新鮮な感動と驚き。そんな興奮を味わいたいがために、いまうちからせっせと本読みに励もう、そんな思いにさせられる本である。
そうして石上さんが俎上に乗せた探偵小説とは、まずコナン・ドイルのホームズ物。論理的な謎解きを主眼とするはずのドイル作品には、実はハードボイルドに通じる要素があったという発見。ベントリーの『トレント殺害事件』を始めとするアマチュア作家の作品群はホームズ物に対する「論」(批評・パロディ)であるという発見。
ヴァン・ダインの一連のファイロ・ヴァンス探偵物や、クイーンの悲劇四部作を通読して見えてくる本当の執筆意図、忘れかけられている古典的名作『赤毛のレドメイン』を始めとしたフィルポッツ作品はミステリとしてより悪女物の名作であるという発見、クロフツフレンチ警部物とシムノンのメグレ警部物に通じる現代的面白さ、アガサ・クリスティが“童謡殺人”にこだわった真の理由、ダシール・ハメットエリック・アンブラー、ジョン・ディクスン・カーウィリアム・アイリッシュの再読で見えてくる彼ら作品群の本当の価値、そして江戸川乱歩横溝正史がわが国探偵小説界に果たした役割などなど、興奮の連続でページをめくる手が止まらない。本書の大きな発見は、欧米作家における米―英の相剋と、探偵小説は理性を基調とする反“戦争”小説であることか。
犯人がいて事件が起こり、探偵が登場してその謎を解き、犯人を指名する。探偵小説として不可欠の重要要素である。やむをえないことだが、「探偵」小説を目の前にすると、読者はその重要要素にばかり注目してテキストを読んでゆく。しかし「謎解き」という要素に目を眩まされると、小説本来の面白さを見過ごしかねない。
石上さんが本書で試み、声高に主張するのは、「探偵小説」を「探偵」小説として読むのではなく、探偵「小説」として読むこと。「探偵小説」を「小説」として読むと、これまで気づかなかったいろいろな面白さが浮かび上がってくる。
「探偵」小説としてしか読まず、肝心な点を読み過ごしていた若き自分に「幼い!幼い!」と罵声を浴びせる。でもいっぽうでこの痛罵を楽しんでもいるようだ。嗜虐・被虐が自分の中で完結している。
大人にならなければ気づかないことがある。あるいは人生経験を重ねたすえにわかることがある。一度読んだ本であっても、そんな時間を過ごすことで、まったく別の容貌を見せる。読書とはかくも人生を豊かにするものなのだということを実地で立証した本。営々と読書を重ねていれば、老後にも二度楽しめる。
ただ危ぶまれるのは、わたしたちの老後、たとえば若い頃に読んだ「古典的ミステリ」などを読める環境が存在するのかどうか。読みたくともテキストが手に入らないという恐ろしい未来を想像して背筋が寒くなる。