書物へ沈潜せよ

巨船ベラス・ラトラス

筒井康隆さんの新作長篇『巨船ベラス・レトラス』*1文藝春秋)を読み終えた。
カバー装画は柳原良平さん。豪華客船を輪切りにして、あらわれた船室に蠢いている有象無象の人物たちの姿を、あの特徴ある描き方で描いたイラストである。客船と言えば柳原さん、ということなのだろうし、とても素敵な図柄なので気に入っているのだが、これまで筒井康隆柳原良平という組み合わせはあったのだろうか。古くからの筒井ファンではないので、この組み合わせが新鮮だった。
帯の惹句によれば現代日本文学の状況を鋭く衝く戦慄の問題作」であり、挟み込まれた新刊案内リーフレットには、旧作『大いなる助走』からのつながりが示唆されている。文学賞受賞をめぐる出版界の内実を一流のスラップスティックで描いた『大いなる助走』はかつて読んでいる(旧読前読後2003/1/17条)。
その記憶もほとんど薄らいでいるからいい加減なのだが、今回その姉妹編という触れ込みの本書を読むかぎりでは、もはや文壇というものがパロディの対象にならなくなっているということを感じた。
『大いなる助走』が書かれた時代はいまだ文壇という世界が確として存在していた。存在していたからこそその批判、パロディとしての『大いなる助走』は痛快だったし、話題にもなったのだろう。
これに対し『巨船ベラス・レトラス』を覆っているのは、何とも言えないやるせなさ、絶望感のような雰囲気だ。筒井さんの小説を読んでいて、こんな気分を汲み取ったのは初めてである。それだけ筒井さんは現代日本文学を取り巻く環境に危機感を抱いているということなのか。
商業主義に走る出版界、作家を育てようとしない編集者、編集者の忠告を聞き入れない作家たち。“一億総カラオケ現象”で、誰も彼もが小説を書きたがる。本が売れる数より小説家志望の人間の数が多いのではないかと思えるほど。彼らはインターネットによる情報摂取に忙しく、まったく本、古典を読もうとしない。本を読んでいないことは歴然であるのに、それなりにしっかりした文章の作品を書く人たち。筒井さんはこれらの作家を「作家」とは呼ばず、「書き手」としている。
もはや筒井作品では珍しくなくなり、読んでいても平常心で受け入れるようになってしまったメタフィクションの手法が取り入れられ、登場人物の作家たちと彼らが書いている小説内の登場人物が切れ目なしに入り乱れる。
ただそれでもなお、終盤にさしかかって「筒井康隆」本人が登場したときには、「おおーっ、いよいよっ」と究極のメタフィクション展開に興奮をおぼえた。ただここで「筒井康隆」が滔々と弁じたのは、自らが被害にあった無許可での作品集出版の告発であり、結局これを言いたいがためにこの作品が書かれたのかと、ちょっぴり落胆した(でもこの部分が別の意味で面白かったりするのだが)。
もとより無許可での短篇集出版は重大な著作権侵害であり、インターネットの普及によって、無自覚にして安易な著作権侵害が広がっていることを懸念し、これが結局は文学の衰退につながると警鐘を鳴らしているのである。一番たちの悪い無自覚な著作権侵害、自分もそれをしているのではないかと恐れる(そもそも書影などを載せることは問題なのだろう)。
本を読まない人間が増えていくことによる「負のスパイラル」で、日本文学には危機がおとずれている。本も好きだがテレビもインターネットも好きというわたしにとっては、登場人物の口を借りたこんな叫びが身に沁みる。

「接岸するでないぞ」狭山は黒眼を点にして叫んだ。「テレビ島とかインターネッ島とかいうろくでもない島だ。あんなところへ上陸すれば『生きているドア』とか何とかなにやらろくでもないものがあって、そんなところへ飲み込まれでもしようものなら膨大な低レベルの情報に巻き込まれて戻ってこられなくなる。戻ってきたとしても文学的には廃人になっておる。迂回せよ。迂回せよ。」(161頁)
筒井さんは、インターネット普及以前のパソコン通信を駆使して、情報ネットワークを作品に反映させるべく、早くから試行錯誤を繰り広げてきた方だし、その成果としての『朝のガスパール』という実験作もある。そんな筒井さんをして、いやそんな筒井さんだからこそ、情報まみれになった果ての「文学的廃人」への危機感を抱いたのだろう。
ネット遊歩もそこそこにして、書物に沈潜するのにしくはないようだ。