方言学への招待

変わる方言 動く標準語

宮崎県知事選挙でそのまんま東こと東国原英夫氏が当選してからというもの、彼の活動が毎日のようにメディアで取り上げられている。彼が当選した理由、当選後高い人気を維持している理由はさまざまあるだろう。そのなかのひとつに、選挙運動や議会演説などで地元の言葉、宮崎弁を使っていることもあるのではないか。政治の世界のなかでも、とりわけ議会演説などあらたまった舞台の場合、方言で話されることは珍しく、そこにある種の親近感を生じさせているのかもしれない。
そんなことを考えたのは、新書新刊である井上史雄『変わる方言 動く標準語』*1ちくま新書)を読んだからだった。
本書の最初のほうで、井上さんは、学問的なことを方言で話すことは難しく、違和感をおぼえる人が多いだろうと書いている。学問の場の言語は「紋切り型」「ステレオタイプ」の標準語であるという固定観念が根強い。政治の場もこれに近いところがあるのではないか。むろん市町村レベルの議会など、ほとんど地元の人で構成されているような場はそれに当たらないだろうが。
カバー裏の著者略歴によれば、井上さんは元東京外国語大学の先生で、社会言語学・方言学が専門とある。出身が山形県とあるところに、山形出身として読書欲をそそられた。やはりこうした本は山形のような土地に生まれた人だからこそ書けるのだろう、そう感じたのだ。
自分自身のことを言えば、18年暮らした山形を離れ、仙台での大学生活で山形の方言を話さず、そのうちすっかり忘れてしまった。いまや親をはじめ地元の人と話しても方言は口から出て来ない。仙台は隣で同じ東北だし、まわりに同じ山形出身の友人もいたにもかかわらず、恥ずかしさが先に立って方言を封じ込めてしまったのだ。
いまの自分は、方言を誇りにこそすれ、けっして恥ずかしいとは思っていない。逆に話せなくなったことに忸怩たる思いを抱く。自分が所属する学問の世界での言葉は前述のとおり標準語だから、口頭発表のときなど、多少方言を感じさせるアクセントを入れて話せば、内容の疵を朴訥な方言で隠すことができるかななどと考えたこともある。いま思えば方言を愚弄した考え方であって、背筋がゾッとなる思いだ。
井上さんの本では、方言イメージについてNHKが調査したグラフが紹介されている。都道府県別に、方言が好きか嫌いか、恥ずかしいか恥ずかしくないかをX軸Y軸に落としたものである。それを見ると、大都市は自信型(好きで、恥ずかしくない)、反対に北関東や北陸では嫌いで恥ずかしいという自己嫌悪型、東北九州四国などは分裂型で、好きだが恥ずかしいというタイプ、愛知や埼玉・千葉など大都市やその近郊では地元蔑視型(恥ずかしくないが嫌い)と出ている。
まさにわたしなど分裂型かもしれない。最後の蔑視型というのは、大都市に一時間以上かけ通勤しているような場所で、地価が安いから仕方なくそこに住んでいるだけで、地元の言葉は好きでないという人たちだ。そう説明されると妙に納得してしまう。
本書は、方言をこのように社会的観点から分析し、標準語が大都市から地方へどのように広がってゆくのかについて、ユニークな考察を展開している。講演録を本にしたということで、来場者との質疑応答などが入り込んだりして面白い。
上で触れたような方言への意識や、標準語の時間的・空間的普及などのデータを丹念にとり、それを数値化してグラフ化する。そのうえでわかったことを文章にする。あるいは仮説を立ててそれを証明するように数値を組み合わせ(これは捏造とはまったく違う)、読者に示す。調べ、まとめ、それを表現する。学問のプロセスが明快で、仮説が立証された喜びがストレートに伝わる羨ましき本であった。
とくに面白かったのは、言葉は鉄道距離に比例して伝播するという議論。井上さんは東京発の言葉と京都発の言葉という二つの軸を設定し、距離と使用率をグラフ化する。東京や京都が高い山になって、左右に距離が離れるにつれ低くなる。これはまあ予測できる。
さらに新鮮なのは、京都発の場合、東の方を北陸線を軸線にして結ぶと、西に向かい低くなるグラフと同じような傾斜になるということ。つまり京都発の言葉は日本海沿岸に沿って距離(鉄道)に比例して伝播してゆくのだ。京都が物資流通の拠点であった時代、東北と京都を結ぶのは主として日本海ルートだったということをこれほど見事に表わしている事例はない。
また、文献初出年を数値化しグラフに落としてみると、ある言葉が作られ、地方に波及していく塊は、13〜14世紀を境にふたつのおにぎり型を呈するという。つまり南北朝時代以前にできた言葉(主に西日本で広く使われる)と、それ以後にできた言葉(主に東日本で使われる)に分けられるのである。日本史の時間的断層がこのあたりにあるという歴史学の議論とも関連して刺激的だった。
わたしが所属する世界は、このように簡単に計量化できるデータに基づき分析できる対象が多いとは言えない。それでも表やグラフにしてみるとわかってくるというのは実感として持っている。本書は文系の本ではあるが、表やグラフを多用しうまく表現することにより、言いたいことを的確に読者に伝えたという意味で、内容ともども知的刺激に富む本であった。