荷風と川本三郎を追いかけて

荷風好日

最近岩波現代文庫に入った前田愛さんの2冊『幻景の明治』*1『幻景の街』*2は、それぞれかつて古本屋で元版を入手ずみであったのだが、読まないまま、結局文庫版も購入してしまった。いずれも川本三郎さんが解説を書いていることも大きな理由である。
その川本さんご自身がかつて岩波書店から出した著書荷風好日』も、つづいて岩波現代文庫に入ったので*3、これも購った。元版刊行後に発表された荷風関係のエッセイ・書評が増補されているから、買わないわけにはゆかない。
元版が出たのが2002年2月であると知ってまず思ったのは、「あれから5年も経っているのか…」という感慨だった。読んだのはつい最近のような気がする。初読時の感想は旧読前読後に書いている(→旧読前読後2002/3/1条)。
その感想を読み直してみると、まず川本三郎さんの名著『荷風と東京』との出会いから説き起こし、1999年に江戸東京博物館で開催された「永井荷風と東京展」の思い出、そのおり企画された川本さんの講演会で初めて謦咳に接し感激したことなどを書いている。
もちろん今回文庫版で再読して思い出したのも、「永井荷風と東京展」のこと(この展覧会についての文章がいくつか収められているゆえ)であったから、元版を読んだ頃のこととあわせ、二重の意味で懐かしかった。今度もまた同展の図録*4を書棚から抜き出して拾い読みする。東京に来てまだ1年くらいしか経っていなかった頃の新鮮な気持ちがよみがえってくる。
元版刊行後荷風終焉の地市川で同じく荷風展が開催され、ここでもまた川本さんが講演をされ、当然また聴きに行った(→2004/3/13条)。あれからですら3年が経とうとしている。川本さんが市川での荷風展を機に初めて知った事実を書いた「晩年の荷風と小林青年」の一篇は、文庫版新収録の文章である。
何度読んでも川本さんが語る荷風の魅力は色褪せず、飽きない。そしていつも荷風の原典を読み返したくなる。荷風が散策した足どりを追いかけたくなる。荷風の『断腸亭日乗』を読み、小津安二郎は「東京物語」に堀切を登場させた。川本さんも荷風を読んでいるうち荒川に出かけたくなった。

荷風の文章を読むと、読者はたいていそこに描かれた風景に見に出かけたくなってしまうものなのだ。(「荒川放水路から荷風をたどる」)
極言すれば荷風の魅力はこの一文に尽きる。このうえにわたしは、人名だけ差し替え、「川本三郎の文章を読むと、読者はたいていそこに描かれた風景に見に出かけたくなってしまうものなのだ」と言いたい。川本さんが荷風を読むと、荷風の足どりを追いかけたくなるのと同様、川本さんの書いた文章を読むとそれを追いかけたくなるし、川本さんが荷風を追いかけたあとをさらに追体験したくもなる。
川本さんは荷風の歩いた東京だけでなく、フランス留学の足跡をも追いかけ、リヨンやパリの町を歩いた。「リヨン、パリの足跡をたずねて」がその紀行文である。これを読んでいると、パリやリヨンの町を東京の町さながらに歩き回りたいという衝動がこみあげてきて困った。東京であればすぐにでも実行できるのに、もどかしい。この文章は元版にもあったはずだが、なぜか記憶に残っていない。
今回の文庫版再読での新たな発見は、この間わたし自身に芽生えた映画にかかわる点だった。荷風作品を原作とする映画を取り上げた「荷風の映画」(原文は「の」に傍点あり)では、8本の作品が紹介されている。この間「渡り鳥いつ帰る」「四畳半襖の裏張り」を観、「踊子」「墨東綺譚」の2本をDVDに録画している(未見)。これらに加え「つゆのあとさき」をいつか観てみたい。杉田弘子が好色の老人東野英治郎と関係を結ぶという。杉田弘子、うん、カフェの女給に似合うような気がする。
戦後の荷風は、戦前と打って変わりよく映画を観るようになったという。川本さんはその理由を次のように推測している。
映画は、客席という安全な場所にいて、いつまでも「見る人」でいることが出来る。映画館の暗闇のなかにひとりまぎれこんでしまえばあとは終始「見る人」となり、スクリーンという幻影のなかの物語を見続けることが出来る。(「荷風と戦後」)
かくして、戦後の荷風にとって映画を観ることは「町歩きの代償行為」であり、「映画館の闇のなかで映画という町を見ていた」とする。鋭い指摘で唸らされる反面、自分のことをも省みずにはいられなかった。
というのも、自分の場合(も同じく、と言うべきか)映画を多く観るようになるにつれ、町歩きの機会が減ってきているからだ。古い日本映画を観ることで町歩きを済ませたような気分になっているのかもしれない。そろそろ暖かくなってきた。湯島天神の梅の香りも強くなりつつある。重ねて川本さんや荷風の本を読み刺激をもらい、町へ出ようか。