小沢栄太郎のことども

火宅の人 俳優小澤栄太郎

昨日触れた小澤僥謳『火宅の人 俳優小澤栄太郎』*1角川書店)は、職場近くの古本屋で手に入れた。
この古本屋には昼休みしばしば立ち寄り、その都度文庫本などを買っているから、おばちゃんからは顔をおぼえられている。お金を払うときいつも何か話しかけられるのだ。生来こうした人付き合いが苦手なわたしとしては、気のきいた世間話ができないのが心苦しいのだけれど、できるだけおしゃべりなおばちゃんの話に耳を傾けるようにしている。
本書を買ったときにも話しかけられた。「若いのに小沢栄太郎なんて知ってるの?」と驚かれたのだった。「若いのに」という表現は必ずしも正確ではないが、要するに「あなたのような世代の人が」という意味だろう。
小沢栄太郎は1988年(昭和63)に亡くなっているから、むろんその現役時代を知らないことはない。本業の舞台人としての仕事は残念ながら知らないが、たとえば「犬神家の一族」(旧作)での古館弁護士などの出演映画を観ている。もっとも現役時代は意識していたわけでなく、最近古い日本映画を観るようになって、味のある小沢栄太郎の存在感が強く印象づけられたのではあるが。
だからおばちゃんの問いかけに対しては「古い日本映画を好きで観てますから」と正直に答えたわけだが、これに対しおばちゃんは「ウチのお客さんに昔のムセイエイガを研究している人がいてね…」と返したとき、わたしはムセイエイガを「夢声映画」と勘違いし、「その人ならわたしも知ってます」とつい答えてしまった。頭のなかには濱田研吾さんのお顔が浮かんでいる。
でもあとから冷静になって考えれば、ムセイエイガは当然「無声映画」であるべきだ。小沢栄太郎から無声映画へとつながったおばちゃんの思考回路を想像すると、小沢栄太郎をよほど古い映画人だと考えているらしい。だからわたしのような世代が興味を持ち彼の評伝本を買うことが珍しく思われたのだ。だって、つい最近まで生きていたではないですか、ねえ。
さて、本書の著者小澤僥謳(きょう)さんは、小沢栄太郎の一人息子である。劇作家、演出家として父親の仕事とも無縁ではない。そんな僥謳さんが、父であり著名な舞台俳優であった小沢栄太郎について、息子という視点から書いた評伝が本書である。
「火宅の人」というタイトルからも推測できるように、小沢栄太郎は女性関係が多く、また俳優座の主要メンバーということもあって、家にいることは少なかったという。女性関係については凄絶である。結婚後劇団の若手女優と恋仲になったものの、ある作品で大役を任された彼女はそれに悩み自殺してしまう。
その後小沢は山岡久乃と深い関係になり、それに悩んだ妻(つまり著者の実母)は精神的に悩み抜いたあげく、またしても自殺してしまう。小沢栄太郎の人生には二人の女性の自殺という大きな事件が影を投げかけている。しかし著者は実母を自殺に追い込んだ父に対し憎しみを抱いているわけではない。
父の女性関係やこれらの事件について、きわめて冷静に淡々と、自分のそのときの気持ちをまじえながら描写を重ね、父親の対応をふりかえる。また、これらの事件が当時の父親の仕事にどのような影響を与えたのか、肉親による評伝とは考えられないほど客観的に論じている。
仕事の面では、昨日も触れた俳優座における活動との関わりで、千田是也東野英治郎(本書のプロローグは東野英治郎の葬儀である)との交友関係や、家族ぐるみで付き合った殿山泰司との関係について触れたくだりが面白い。
また人間としての観察では、大の読書家(荷風、谷崎、石川淳が好きだったという)でありながら、書物というモノそのものについてはきわめて淡泊で、愛好家の間では価値の高い漱石の初版本などを平気で売り払ってしまうといった挿話、演技者として自己の主体性が薄いせいか、考え方が豹変するさまが自らの体験をあげて描かれる。田園調布にあった小沢家は、小沢が新しい女性をつくるたびに増改築を重ねていったという。
死の床にあった小沢が著者に対しつぶやいた「俺は存在しているのか」という問いかけが、読後重々しく頭に残った。
巻末のフィルモグラフィを眺めると、小沢栄太郎出演映画はけっこう観ているはずだが、どれがどの役柄だったか、まったく記憶が混乱してしまっている。ひとつひとつ見ていけば、強く記憶に残っているのは、「稲妻」(成瀬巳喜男監督)、「やっさもっさ」(渋谷実監督)、そして先日観た「ひき逃げ」(成瀬巳喜男監督)程度。映画自体には大きく打たれた「人間狩り」や、泣かされた「娘と私」、また川島雄三監督の「愛のお荷物」「あした来る人」などに至っては、もう何を演じていたのか忘れてしまっている。
小沢栄太郎が悪いのではない。そういう中で「稲妻」のような憎々しげな役がいくつか残っているだけでも、彼が名優であることは証明されるであろう。