庄野潤三と小津映画

ザボンの花

出張という俗世間を離れることができる機会(もっとも公務だから俗世間とは完全に無縁ではない)になると、そんな状況にぴったりの、心落ち着かせる、澄明な気分になることができる本を読みたくなるらしい。そんなとき選ぼうという気になるのがみすず書房の「大人の本棚」シリーズである。
先々月下旬の秋田出張で携えた一冊が、そのとき新刊で求めていた小山清『小さな町』(みすず書房)だった。行きのこまち車中で興に乗って読み進んだものの、滞在中や帰りにはほとんど読むことができず、東京に戻ってからも俗世間に流されそのままになってしまった。小さな町 (大人の本棚)
結局三分の二ほどまで読んだところで止まっている。基本的に“解説あと読み派”だから、堀江敏幸さんの解説も未読のまま。感想を書けずに終わってしまいそうだ。今年はそんな本がけっこう多い。
先の週末今度は山形出張に行っていた。何を携えるかあれこれ悩んだ挙げ句、結局選んだのは性懲りもなく「大人の本棚」シリーズの新刊、庄野潤三さんのザボンの花』*1だったのである。ただ今度は『小さな町』の二の舞にならぬよう帰ってからも少しずつ読みつぎ、ようやく読み終えることができた。
帯に「『夕べの雲』の前編、庄野文学の代表作」とある。『夕べの雲』を面白く読んだ者として(→2005/4/23条)、また庄野作品を古いものから順に読もうとしている者としては見逃せない。最近古本屋を訪れるたび本書の福武文庫版を探していたおりもおり、テキストが再刊されたのは嬉しい。ただ文庫版でなくみすず書房版というのは、高価なので複雑な気持ちだ。
夕べの雲』は生田に越したばかりの頃、長女高校生、長男中学生、次男小学生という時期が舞台となっていた。これに対し『ザボンの花』は長男長女が小学生、次男は幼稚園以前という時期で、主人公一家が東京に越してまもない頃が描かれている。『夕べの雲』や実際の庄野一家と異なり、子供は一番上が長男、次いで長女・次男の順であり、フィクションの気配が漂っている。
とはいえ「私はこの母に東京に引越した私たち一家がどんなふうにして暮しているかを知らせるつもりで書いた」と新版あとがきにあるから、当時の庄野一家の暮らしがこのなかに色濃く反映されているのだろう。
本作品は芥川賞受賞後に依頼された初の新聞連載小説だという。わたしが知っている、孫もいる現在の庄野さん家族の暮らしを描いた小説の味わいとも若干異なり、春から夏の終わりにかけての東京西郊の畑や雑木林に囲まれた家族の暮らしが、16の挿話(16の章)によって綴られる。
夏休みに入り、大阪の実兄一家のもとに一足早く自分たちだけで旅立った幼い兄妹が、夏休み終わり近くに戻ってきたあたりで幕を閉じる物語で、小説の展開とともに季節も確かに移ろっている。読み終えたあと巻末の初出を見ると、1955年4月1日から8月31日まで連載されていたという。連載期間の季節感がそのまま小説のなかにも流れていることに感動をおぼえる。
そう、この作品は何と1955年に書かれたのだ! 50年前の作品とは思えないほどのみずみずしさがあって、この点でも重ねて感動してしまう。50年前の風俗が書き込まれていないわけではないのだが、そうした描写は最小限にとどまっている(扇風機や蚊帳、場末の映画館、帰省のさいの交通の便などの時代感は面白い)ためか、強い時代性が感じられず、家族のありようの普遍性が浮き彫りになっているのである。
50年前と言えば、小津安二郎作品とほとんど同じ時代だ。最近「麦秋」での子供たちの姿に関心をおぼえたせいか、この小説に描かれた兄妹三人のいかにも子供らしい暮らしぶりに小津映画を思い出してしまう。学校に行っている兄姉と違い、まだ関西弁が抜けきらない末っ子四郎の話し方に、子供っぽいユーモアがある。
よく考えれば第七章「こわい顔」における押売りのエピソードなどは「お早よう」のそれを思い出させるし、昭和30年(代)の子供像というものが、小津映画や成瀬映画のいい面に共通しているような気がする。「古き良き」という雰囲気なのだ。
むろん庄野さんの家族、子どもたちにむけるまなざしは変わっておらず、子供の姿も時代を問わず不変であると言うこともできるが、本書を読むと、うまく言葉にできないが、たしかに家族のなかでの庄野さんの視座は違い、また当時の子供と今の子供の「良さ」も微妙に変わっていることに気づかされるのである。