親であることの哀しみ

感情の法則

北上次郎さんの文庫新刊『感情の法則』*1幻冬舎文庫)を読み終えた。本書は名著『活字学級』*2目黒考二名義、角川文庫、→2003/7/14条)の系譜を引くエッセイ集で、これまた名著と言うべき内容だった。
翻訳小説を読みながら、ストーリーの流れとは別の、なかに描かれている男女関係や親子関係、過去に対する向き合い方などを取り出し、むかしの友人、恋人、親、息子たちの姿を連想して、美しかった過去の時間をひたすら追懐する。息子たちが将来親離れをして巣立っていくことを望みつつ、いまある息子たちとの濃密な時間を精一杯受けとめようとする。
北上さんは、もはや未来に向かっては「どうでもいい」と投げやりになるいっぽうで、ただひたすらに後ろを向いて、過ぎ去ったことがすべて美しく見えるという50代の感傷を生きる。
『活字学級』によってこの手のエッセイ集の面白さに目ざめたわたしは、その系譜に連なる『記憶の放物線―感傷派のための翻訳小説案内』*3本の雑誌社、→2003/9/19条、来月同じく幻冬舎文庫に入るという)を味読し、今年に入ってからは『新・中年授業』*4本の雑誌社、→4/18条)も面白く読んだ。『新・中年授業』の目黒さんは50代も半ばを過ぎている。読んだときにはこう感じた。

本書を通読して思ったのは、息子さんたちが自立した道を歩みつつあるゆえか、もはや『活字学級』のように息子をもつ父親の心境という点でひっかかることが少なくなってきているということだ。
今回文庫に入った『感情の法則』は早川書房刊の元版が1999年に出ている。本書の存在は知らなかった。『活字学級』が94年であり、『感情の法則』『記憶の放物線』を経、『新・中年授業』に至る。3〜5年おきに4冊が刊行される過程で、北上さんは40代から50代半ばへと年を重ね、息子さんたちも社会人、大学生になった。
『感情の法則』の場合、まだ長男が中学生になったという段階で、北上さんは50を越したあたり。ほとんど家にいないため存在感が薄まることを危ぶみつつ、背中を見せることで親父の存在感をわかってもらいたいと熱望する。たまに家に戻ったときには、息子たちと過ごす時間をかけがえのないものとして実感する。もはや北上さんにとって、時間の流れの正確な意味で、家族と過ごす「現在」がその瞬間瞬間から甘美な過去に変わってゆくのである。
そのなかから名言の数々が生まれる。解説の池上冬樹さんが書くように、「名言や卓見、箴言がいくつもあ」って、「その一言一言が重い」。心に沁みてくる。読みながら、家族を持つこと、子供であること、父であることの喜びと哀しみが胸に迫ってくる。
年を取ると、否応なくさまざまなことを考えざるを得なくなる。そういう雑事の中で生活することが自然になっていて、とりたてて苦痛にも感じないが、そのぶんだけ未来がわかってしまったつまらなさは否定しようがない。(89頁)
親にとって大切なことは子が生きていることだ。その子に自分の愛が届くことだ。自分の体は滅びても、子が生きて、その子の中に自分の愛が残るならそれで十分慰めになるのである。親とは、そういう生き物だ。(130頁)
子とペットが異なるのは、子が成長してくることだ。幼子のときは親の手をしっかりと握っていた子も、十歳をすぎるころから滅多なことでは親の手を求めなくなる。(…)私は赤子が可愛いと思ったことのない人間だが、親の手の握らなくなるこの頃から、むしろ子と親の蜜月が始まるのではないかと考えている。つまり、別の人格が誕生してこそ、親と子の関係は面白いのだ。(160頁)
男女の愛も親子の愛も、もともと一過性のものなのである。ある瞬間だけ強く結ばれるから、その時が光り輝くのである。その哀しみをずっとかかえていくのである。(262頁)
親として子を愛すること、子として親を思うことは哀しみなのである。年齢を重ねるにつれ、この哀しみが心のなかに満たされ、「やるべきことはやった」と未来志向を喪失した50代の心の空白を埋めてくれる。
哀しみを抱えるきっかけは誰でも身近なところにいくつも転がっている。それを哀しみと捉えられるか。そうした感受性を発揮できるか。本を読むこと、映画を観ることは、やはり感受性を研ぎ澄まさせるためにも絶対必要な営為であると、北上さんの本を読みながら強く思った。
こんな名言だらけの本書のなかで一篇を選ぶとしたら、迷わず「父の役目」をあげる。長男が学校で倒れて頭を打ち、意識不明との知らせを受け、学校に駆けつけ、救急車に同乗し病院に向かう。病院で治療を待っている間、生まれてからの長男の姿が浮かんでくる。
子が元気でいること。幸福な人生を歩んでいること。親はそれだけを願っているのだ。そのために子が生まれ育った家を出ていくなら、自分が淋しくても、そんなことなど、どうでもいい。けれど、子がまだ自分の人生を始める前に、中学三年で逝ってしまうのは勘弁してほしい。(168頁)
幸い息子さんの意識は回復し、検査にも異常が見られなかった。そこで北上さんが思い出すのは、自分が子供の頃、大怪我をして父親に抱かれながら病院に連れて行かれた記憶だった。そのときの父親の気持ちを忖度し、いまの自分の気持ちと重ね合わせる。そんなくだりを読んで、目頭が熱くならないはずがない。思わず電車で目を閉じた。
ついでに言えばこの「父の役目」は、翻訳小説の印象的な場面をはさむように感動的なこのふたつの挿話が配置された最後につけられた、その感動をはぐらかすいかにも北上さんらしいオチも絶妙。起承転結備わったすぐれた短篇小説を読むかのように、胸がすく気分にさせられたのだった。