大都会の暗闇、琴のそら音

凸凹道

また結滞が気になりだした。わたしの場合脈が抜ける式の不整脈である。疲れたりストレスを抱えていると出やすいのはわかるが、休みの日に家にいてもたまに出ることがあるからわからなくなる。
不整脈がひどくて憂鬱な気分になると手に取るのが内田百間の随筆集だ。百鬼園先生は不整脈の持病を抱えた先達であり、それに悩まされながら八十過ぎまで生きた。だから苦しくなると百鬼園先生の文章を読んで気を落ち着かせようとする。
旺文社文庫版の随筆集を古いほうから順に読んでいる。以前読んだのは第四文集の『鶴』だった(→2005/8/13条)。一冊読み終えると、書棚に並んでいる旺文社百間文庫から次の冊をちょっとだけ飛び出させて、目立つようにしておく。次はこれ、とわからせるためである。
前回読んでから一年以上過ぎてしまったが、今回次の第五文集『凸凹道』*1旺文社文庫)を読み終えた。読んでいるとだんだん愉快になってきて不整脈も症状が軽くなってきたような気がする。百鬼園先生の本を読んで正解だった。
帝大入学のため岡山から上京して住んだ本郷界隈の昔の話、ひいては昔の東京の話、また、百鬼園先生のなかでは大きな時代の区切りだったとおぼしい「大正十二年の大地震」(「関東大震災」とは絶対書かない)の挿話を拾い集めるのが好きだ。
地震があった翌日、先生は琴の師匠で友人でもある宮城道雄検校のことが心配になって、彼の家のある(市谷)加賀町まで様子を見に行った。

その家のある広い道の角を曲がつたら、向うの道端の、前の家の塀の上からかぶさつてゐる大きな樹の下陰に籐椅子を持ち出して、宮城検校は遠くの物音を聞き澄ます様な顔をしてゐた。(「明暗交友録」)
本書には宮城道雄との交友を語る文章に印象深いものが多い。二人は気のおけない友人同士で、盲人の宮城検校に目の見えないことをからかい、検校はそれを軽口でやり返すようなやりとりは、かえって親愛の情がにじみ出て、素晴らしい。宮城検校の随筆集『雨の念佛』評が掲載されており、それを読むと宮城道雄の文章を読みたくなってくる。
宮城検校と百鬼園先生と言えば、酔っぱらった先生が宮城邸の電燈の傘のねじ釘を一々外し、中の電球をゆるめて明かりが点らないようにして、またご丁寧にねじ釘を締めて帰ったり、家中にある障子や襖を外し、寝ている内弟子の蒲団の上に一枚一枚かぶせて帰ったという悪戯話には読んでいて吹き出しそうになった。
地震の話であれば、次の見聞譚も迫力があって圧倒される。
地震後に初めて電車が動き出した時、外濠線の飯田橋から四谷見附までの間を日が暮れてから乗つたところが、明かるいのは電車の中だけで、濠も丘も向うの土手も家竝もみんな一色の真黒な大きな塊になつて薄明かりの空の下に不気味な輪郭を仕切つてゐた。子供の時の記憶に残つてゐる田舎の闇よりも、大きな都会の暗闇の姿の方が餘程恐ろしいと思つた。(「暗闇」)
百鬼園先生は上京直後根津S坂上の下宿から帝大に通った。森川町から正門をくぐり構内に入ると井上哲次郎博士とすれ違った。講義を聴いたことのある栄造青年は慌ててお辞儀をした。博士のほうでは一々学生の顔を憶えているわけではないのだが、学生にお辞儀をされた博士は、「ああ、あつ」と声を出し、慌てて帽子を取って後ろをふりむき丁寧な答礼をされた。栄造青年はこれでいっぺんに博士を好きになったのである。
正門から本郷通りを渡ると、かつての森川町である。正門からまっすぐ西片町のほうに向かうと、かの「から橋」がある。
二十年前初めて東京に来て、大学生になつた時、毎日学校の往き帰りに通る本郷西片町と森川町との間のから橋の袂に、山田流の琴の稽古所があつて、ころころと好い音が聞こえるから、つい入口の方を見ると、いつでも玄関の土間に靴が一ぱい穿きすててあるので、その度にどうもじつくりしない気持がした。(「裸安居」)
これを読んでいたある日、百鬼園先生の歩んだ道をたどりたくなって、昼休み散歩がてらから橋(清水橋)を渡ってみた。もう袂には琴の稽古所も、琴が聞こえてきそうな雰囲気の家もないのだけれど*2、そこを若き百鬼園先生が歩んだかと思うと、「ころころと」した音色が聞こえてくるかのようであった。

*1:ISBN:4010613009

*2:実はそれらしく古めかしい木造家屋は袂ではないが橋の近くにある。その家屋に入っているのがイエズス会支部というところが、本郷らしくて面白い。