川上文学からしばし離れようか宣言

真鶴

川上弘美さんの新作長篇『真鶴』*1文藝春秋)を読み終えた。
繰り返し書いていることだが、わたしは『センセイの鞄』以来の川上ファンである。以来刊行された小説やエッセイ集などはたいてい購い、読んでいるはずだ。けれども、このあいだ中公文庫に入った『光ってみえるもの、あれは』は、新刊で買い逃したまま古本で見つけて購ったものの、読まないうちに文庫になってしまった。ますます売れっ子になるにしたがいスピードアップする作品の刊行速度に追いつけなくなりつつあったのである。
もっとも、川上作品に感じつつあった距離感については、刊行速度の問題だけにとどまっていないとおぼしい。ふりかえってみれば、最近読んだ短篇集『ざらざら』*2(マガジンハウス、→8/9条)の感想ですでに「さほど心を動かされなかった」と書きつつ、なお川上文学のよき愛読者たらんと、感想の文章を綴るべく苦闘していた。
今回『真鶴』を読んでこの距離感が決定的なものとなった。しばらく川上さんの作品から離れてみようかと考えている。
この長篇の主人公は、12年前に失踪した夫の影をなお追い求めながら暮らす中年女性。職業は物書き(エッセイ主体で、小説もときどき書くらしい)で、高校生の娘と母親の女性三人暮しの生活をしている。いっぽう仕事上の付き合いがある編集者で、妻子ある男と不倫関係にもある。
彼女は失踪した夫が認めていた日記に残された「21:00」という時間や「真鶴」という土地の名前に固着しながら、単身真鶴を訪れ旅館やホテルに身を投じて海辺をさまよい歩く。彼女には、どうやら夫失踪の事情を知っているらしい謎の女が取り憑いており、ときおり幻影のごとく目の前に浮かんできては、主人公と言葉を交わす。
浅い読み方かもしれないが、主人公の女性が、夫を失ったという空虚を回復してゆく物語と言えようか。主人公に亡霊のような女が取り憑き、二人の女性が何のためらいもなく会話を交わしたとしても、そうした幻想性は川上文学の特徴だからさほど気にならない。
今回とくに重く感じたのは、夫失踪前の回想シーンだった。妊娠して長女を産むまでの妊産婦女性の気持ちの揺れがきめ細やかに描かれている。この作品のなかでもここは読ませる部分であるには違いないが、男のわたしにとっては、面白く読みつつも、それだけに圧倒され、そうした女性の感覚を根本的には理解できないという重圧に襲われたのである。なまなましいほどの女性感覚の発露。
それとともに、行きずりの男性とも簡単に男女の関係になってしまう登場人物の行動。これは倫理観によって正邪を判断し、嫌うのではない。欲情をむきだしにする男女の生態にリアリティを感じられなくなってきたということだろうと思う。こうした人間たちもこれまでの川上作品には多く登場しているはずだが、我慢できなくなったようだ。
そんなこんなで、しばらく川上さんの作品からは距離を置いてみたい。時間をおいてふたたび読んでみれば、違った受け止め方ができるかもしれない。買って未読のままになっている今年出た新刊(中央公論新社の『夜の公園』と講談社の『ハヅキさんのこと』)を読んで、ひと休みしよう。