見て、記憶して、思い出す人

須賀敦子全集第1巻

河出文庫から『須賀敦子全集』の刊行が始まった。もともと同社から函入上製本として出ていたものの文庫化である。まさか『須賀敦子全集』が文庫になるとは思わなかった。文庫に入った須賀さんの本は古本でだいたい集め、持っているが、読んだことがあるのはちくま文庫に入った『遠い朝の本たち』*1ただ一冊きり(→旧読前読後2001/4/3条)。
そのときの記録を見るかぎり、わたしは須賀敦子という書き手に対し、熱烈な好意を寄せるまでには至っていない。「本のタイトルに「トリエステ」や「ヴェネツィア」、「ユルスナール」など外国の都市の名前や人の名前が出て」くることによる「横文字アレルギー」を克服せぬかぎり、「須賀文学も素直に受け入れられないのかもしれない」と書いている。
それから5年半が過ぎた。この間、やはり拙サイトを訪れてくださる方のなかに須賀文学が好きな方がおられたり、わたしの嗜好は須賀文学とマッチするに違いないと指摘してくださる方もいて、まったく無関心ではいられなかった。
今回全集の文庫化というきっかけと同時に、坪内祐三さんの『考える人』*2(新潮社、→9/23条)を読んだのも、須賀文学にいま一歩踏み込むことになる大きなきっかけとなったのである。
『考える人』の坪内さんは、わたしの次元の低い敬遠とは異なり、須賀作品および書き手としての須賀敦子に対する複雑な精神的距離感を告白したうえで、須賀作品に目を通し、須賀さんが「考える人」というより「思う人」であったと喝破されている。
さてわたしも、須賀敦子全集 第一巻』*3河出文庫)をとうとう読んだのである。実は先日の秋田行のさい携えたうちの一冊が本書であったが、なかなか捗らず、東京に帰るまでずいぶん読み残してしまっていた。
俗世間の煩わしさから解放され、旅のなかに身を置くのが、須賀作品を読むシチュエーションとしてベストかと勝手に考えてのことだったが、旅先で酒を酌み交わしたあとの酔った頭で読むべきものではないことに気づいた。澄明な気分にあるとき(本当のことを言えば、そんな気分になることは滅多にない)こそ、須賀文学はふさわしい。
第一巻には処女作『ミラノ 霧の風景』に加え、『コルシア書店の仲間たち』と、1996年に『ミセス』誌に連載されたまま単行本には収められなかった「旅のあいまに」と題された連作エッセイが収録されている。
この三作品を読んで、坪内さん流に須賀敦子という人を規定するならば、「考える人」でも「思う人」でもなく、「記憶する人」また「思い出す人」であり、さらに「見る人」ではないかと感じられた。
須賀さんは、1950年代、60年代にイタリアなどで暮らした記憶をあたため、約30年経った1985年になって『ミラノ 霧の風景』にまとめられる文章を発表し出した。そして10年足らずの文筆活動ののち逝去する。20年から30年前の生活の記憶、そこで出会った人たちの記憶を細やかに文章に再現するいとなみは、並みの人間が真似しようとしても不可能である。
『コルシア書店の仲間たち』に、「そんな午後、私は、シポシュ氏とノラ夫人に、彼らの危険と冒険にみちた昔話をせがんでは、遠い日、祖母から聞いたおとぎ話のように、ひとつずつ、記憶のひだにしまいこむのだった」という一節がある(「家族」)。この表現を借りれば、須賀さんには記憶をしまいこむための「ひだ」が無数にあるのに違いない。
解説の池澤夏樹さんは、イタリア体験から執筆までの時間のなかで、須賀さんの「思い出は鋭い角が取れて円熟し、味と香りは深みを増し、歳月をおいた分だけ全体の構図が整って、やがて最高の素材となった」とする。思い出をしまい込んだ「ひだ」の奥深さが熟成を手助けしたと言えようか。
先にわたしは須賀さんを「記憶する人」「思い出す人」「見る人」としたが、順番で言えば、「見る」ことが土台にあって、それを「記憶し」、のちに「思い出す」ということになるだろう。須賀文学における人間観察の態度は、これもまた池澤さんが指摘ずみである。

人との交渉なくして人間の生活はない(アツコは聡い目と正しい判断力を持った優れた観察者であり、人々の生き方を深くよく見ていた。その人物観察の成果の一つが、知りあった人々についての短いエッセーを連ねた『旅のあいまに』である。この長さの中にこれだけ生き生きとした肖像を収める伎倆はまこと讃歎に値する)。
わたしも同感で、「旅のあいまに」は絶品のポルトレであり、そこに共通する、『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』で綴られる仲間や出会った人びとたちに向けられたまなざしの鋭さに感じ入ったのである。しかもこの観察眼の対象は人間ばかりでない。ミラノという古い都市の細部を、その歴史を踏まえつつ当時の雰囲気をたくみに描き、またそこに暮らす人間たちをも一筆書きのようにさらりと活写した「街」というエッセイに見事にあらわれている。
さいわい文庫版『須賀敦子全集』は隔月刊のようだから、積ん読の恐怖におびえることなく、ふた月にいっぺん配本される続刊をじっくり味読することができそうだ。最後に、本書のなかでもっとも印象に残った一節を以下引用する。
コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれ心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。(『コルシア書店の仲間たち』の「あとがき」)
自分自身の孤独を確立しないまま自分の世界を他者に押しつけようとしてはいないか、そんな反省を迫られる一文である。