散歩愛好者の究極の愉しみ

東京坂道散歩

山野勝『江戸の坂―東京・歴史散歩ガイド』*1朝日新聞社、→11/1条)の感想を書いたら、退屈男さんより、ほぼ同時期に似たような“坂道本”が出たことを教わった。冨田均さんの『東京坂道散歩』*2東京新聞出版局)である。
さっそく東京新聞のサイトで確認すると、なかなか雰囲気のいい装幀の本であった。そうでなくとも冨田さんの本は『東京映画名所図鑑』や『聞書き・寄席末広亭』など面白く読んでいるから(『東京徘徊』は持っているけれど未読)、わたしにとって“買い”なのである。
最近積極的に新刊をチェックするという気概が薄れてきており、自分の殻に閉じこもりきりになっているから、本書が出たことをまったく知らなかった。大学生協書籍部に新刊として並んでいればまだ目につくから救われるのだが、入れてくれない本が多いので見逃す率も高い。
翌日の仕事帰りに最寄り駅前の新刊書店の、地図やガイドブックなどがあるコーナーでようやく本書を見つけたのである。よほどのことがないかぎりそのコーナーに足を向けることはないから、退屈男さんに教えていただかなければ、知らずにそのままになっていたかもしれない。
東京新聞出版局から出ていることでもわかるように、本書は2003年から今年まで東京新聞に連載された文章をまとめたものである。ちょうど昨日書いた鹿島茂さんの『パリの秘密』も、ほとんど同時期に同紙夕刊に連載されていたらしい。堀江敏幸さんもかつて同紙夕刊に連載していたし(「多情「物」心」、角川書店『もののはずみ』*3所収)、都新聞の流れを汲む東京新聞がいま気になっている。
さて冨田さんの『東京坂道散歩』は、東京散歩をこよなく愛する冨田さんが、過去の坂道散歩の記憶・記録と重ね合わせながら東京の坂を歩いた散策エッセイである。最初に歩いた記録が昭和40年代の頃という坂道が多いから、冨田さんの東京散策は年季が入っている。
しかも記録魔である冨田さんは、坂道の途中に何があったのかといった細かい情報もメモされているとおぼしい。かつて坂道にあった木々が伐採されてなくなっており、それを嘆く文章が多く、印象深かった。そこにあったはずの建物がない、といった発見はわたしにもおぼえがあるけれど、植生まではっきりおぼえているかと言えば、自信がない。そのあたり冨田散歩記録の特徴だろう。
本書で一番最初に取り上げられているのが、東五反田の「裕次郎坂」。映画「嵐を呼ぶ男」で、石原裕次郎がここを下ったという石段である。これは冨田さんご自身の命名で、もちろん一般的にそう呼ばれているわけではないから、たとえば山野さんの本に載るような坂道ではない。
映画製作にも深く関わっていた人らしく、映画から最近のテレビドラマに至るまで、ロケ地となった坂道の情報に詳しい。本書でも文学作品だけでなく、そうした映画・ドラマとの関連で叙述された坂道が意外に多い。さすが『東京映画名所図鑑』の著者である。
先ほど「裕次郎坂」は著者の命名によると書いた。冨田さんは自分で坂道に名前を付けることを好む人だ。すでに名のある坂であっても、そうと知らず、みずからが歩いた印象で勝手に名前を付けることもある。山野さんの本のところで触れた「堀坂」を、冨田さんは「見返り坂」と名づけていたという。
坂崎重盛さんも、『TOKYO 老舗・古町・お忍び散歩』*4朝日新聞社、→2004/10/22条)のなかで、散歩のおり気になった路地の名前を付ける習癖があることを吐露している。
気に入った通りや坂道があったら、すでに一般的に通っている名前とは別に、みずからが感じたまま、自分好みの名前を付ける。行きつくところ、散歩愛好者の愉しみはこれに尽きるのではあるまいか。