無関心と保守の精神

パリの秘密

鹿島茂さんの新刊エッセイ集『パリの秘密』*1中央公論新社)を読み終えた。
本書は鹿島さんが「歴史探偵」「建築探偵」としてパリの市内を歩き回り、歴史的遺跡や文学的遺跡、史上有名ではないけれども特筆に値するマニアックなスポットなどを、鹿島さん独特の視点から捉えたものである。
ひと気がないけれど妙に気になる路地に入り込み、たまたま目にした解説プレートを読んでそこが由緒ある場所だったことを知る。ガイドブックにも載っていないプチ・ミュゼを訪れ、そこに展示されている遺物にパリの歴史を感じとる。ファサードだけでなく贅を凝らした内装を鑑賞(確認)したいためだけに古めかしい劇場や映画館に飛び込んで、演劇・映画以上に劇場の内装を堪能する。町中の風俗から19世紀の名残を拾い集める。
「十九世紀フリーク」としての鹿島さんは、パリのいたるところから19世紀的なもの、さらにもっと古い歴史を嗅ぎとる。これはそもそも19世紀的なオブジェに満ちた文学作品や歴史的資料からの知識を蓄積していなければ、できないわざである。だからこんなことができるのは鹿島さんしかいない。一観光客として、鹿島さんの歩いたパリの路地や寂れたパサージュを歩いても、雰囲気は共有できても鹿島さんのごとき知的興奮は味わえまい。それを伝える本書を読むだけで満足だ。
鹿島さんは「あとがき」で、「永遠に普請中」でゲニウス・ロキ(地霊)が生き続けることが困難な都市東京とくらべてパリを次のように表現している。

 そこへいくと、パリは百年前、いや数百年前の建物やオブジェが平気で残っている。なのに、道行く人はそんなことに気づきもせずに前を通り過ぎていく。素晴らしい無関心。
 だが、その無関心は、建物やオブジェを取り壊してしまおうという方向には向かわない。一度出来上がったものはそのままにしておこう、壊す理由がないのだから。これぞ保守の精神。
 こうした無関心と保守の精神があるから、ゲニウス・ロキはいつまでもその場所に居座り続けることができる。
19世紀の開発業者が客寄せのためパサージュに面した建物の壁面にエジプトの女神を象った装飾をほどこした。当時は「エジプト風」が流行だった。ただ、ブームが去り時代遅れになったら、東京であればふつう取り壊されるはずである。しかしパリの人たちはそうはしない、というより無関心なので、200年前、300年前のオブジェが平気で残ってしまう。
19世紀に開業し、またたくまにパリ中にチェーンを広げたある大衆レストランの支店の建物が、いまではビリヤード練習場となって残っている。そのビリヤード練習場に変わってからですら、60年になろうとしている。けれどもインテリアを仔細に観察すると、19世紀レストランのそのままなのだ。
設備投資という概念を知らないのか、居抜きで入居したまま、一切、インテリアを変えていないらしい。(…)やる気のなさが歴史を救う、パリはそんな逆説に満ちている。(59頁)
ことほどさようにパリは、無関心が基底にあり、そのことにより何物かを変えるという前向きな努力とは無縁であるような保守の精神のおかげで、街並みは骨董品のように輝きを見せている。寂れることを嫌い、何ごとにも前向きに「再開発」という名前で手を加えずにはおかない東京(および日本人)とはえらい違いだ。
鹿島さんはかつて『文学的パリガイド』*2NHK出版、→2004/8/6条)のなかで、100年以上にわたって寂れ続けるパサージュにたたずむことの愉楽について語った。
「寂れる」というのは、かつてある程度の栄華を誇っていた場所などが見向きもされなくなった状態を表現する言葉である。少なくともわたしはそう解釈していた。そこでは語られた時点における状態のみが問題とされているはずだ。
ところが鹿島さんはパリのパサージュに「寂れ続ける」という新しい価値観を見いだした。寂れるという過去とも未来とも切り離した現時点での状態を示す言葉としてではなく、そこに「続ける」という現在進行形を意味する動詞を結びつけ、寂れることが持続的状態としてありうることをパリという都市のなかに発見した。
わたしはこの「寂れ続ける」というキーワードの発見が、近年の鹿島さんの仕事のなかでも大きな位置を占めるのではないかと思っている。よく考えれば、寂れることを一点の状態でしか見ないわたしの狭量は、寂れることを厭うべきものであると考える日本人的思考に毒されているものにほかならない。
本書では、『文学的パリガイド』で触れられていたパサージュとは別の、パサージュ・ジュフロワについて、ふたたび「寂れ続ける」論を開陳している。パサージュ・ジュフロワにはとくに目を引くような古い建物があるわけでもない。なのに一歩そこに足を踏み入れると感じる恍惚感は何なのか。
思うに、それは寂れた年月の長さである。十九世紀の後半には台頭するデパートに圧されて、早くも不人気なスポットの仲間入りをしていたから、もう百年以上は寂れつづけていることになる。「百年の孤独」ならぬ「百年の衰退」である。この「百年の衰退」がパサージュ・ジュフロワに、逆に凛とした「威厳」のようなものを与えているのだ。(166頁)
版面上部の横書きの柱のところには、輪転がし(?)の遊びに興じ、その輪っかを転がしそこねて遠くにやってしまい、途方に暮れる少女の影絵をあしらった“パラパラ漫画”が添えられている。エッセイの中味とともに、そんな遊び心も愉しい本であった。