坂の名前

江戸の坂―東京・歴史散歩ガイド

東京に来て驚いた、というより実感したのは坂道が多いことで、職場が台地上に、最寄駅は谷にあるので、まず通勤退勤のとき必ず坂道を上り下り(通勤時は上り、退勤時は下り)しなければならないのがひと苦労だった。
仙台に住んでいたときは完全に自動車に頼りきりの生活だった。仙台の住まいもちょっとした坂上にあったのだけれど、車があれば気にならない。恥ずかしい話だが、いま考えると「こんな近いところなのに、なぜ」と呆れる距離にあるコンビニに買物に行くことすら車を使ったものだった。
東京にしばらく暮らしているうち、坂道の上り下りを気にすることはなくなった。苦にならないと言えば嘘になるが、上るときの足の重さでその日の体調を知るという楽しみもおぼえた。
すでに仙台に住んでいた頃から、横関英一さんの古典的名著『江戸の坂 東京の坂』(中公文庫)正続2冊は持っていたはずで、東京に来て坂道の由来を知ろうと思えばこの本にまずあたるのが習慣になっていたのである。
先日出た「坂道研究家」「日本坂道学会会長」山野勝さんの新著『江戸の坂―東京・歴史散歩ガイド』*1朝日新聞社)は、今後横関さんの本に変わって、坂道を調べるときにまず開く本となりそうである。
そもそも本書のもとになった連載が朝日新聞東京版に連載されていたときからの愛読者であったが、そのさい付けられていた水野裕子さんのイラストと一緒にまとめられたことにより、東京の坂道に関する知識がこの一冊に集約されてわかるようになったことは喜ばしい。
「東京の坂道」と言っても、書名にあるように、本書が対象とするのは、主として江戸御府内(江戸時代の市街地)に限られる。少し範囲を広げても、二十三区内にとどまる。そして江戸時代に命名された坂を中心に取り上げられている。ただこれも例外はあって、明治以降に命名された「新坂」も排除するものではない。
その都市に起伏があり、山(台地・丘)の上と下に人の住む家があり、それらをつなぐ道があれば、必然的にそこには坂道ができる。とはいえ坂道は道路の一形態にすぎないから、道路に名前が付けられていさえすれば、坂道を特に識別するための名前はいらないはずである。
でも江戸の人は坂を愛した。坂という坂に通りとは別に名前、愛称を付与し、ともすれば坂の名前がその場所を代表する呼び方になることもあった。坂道には風情がある。山野さんは「名坂」の条件として、勾配がなるべく急なこと、なるべく湾曲していること、江戸情緒が感じられること、ユニークな命名の由来があること、以上四つの条件をあげている。
そして選ばれた名坂のなかに、わたしも大好きな谷中の三浦坂があるのが嬉しい。三浦坂とはその一帯に美作勝山藩主三浦家の下屋敷があったことに由来する。坂の名前は江戸の地名同様、大名屋敷や坂の上下に住んでいる人の名前に由来するものが多い。
その意味で面白いのは、文京区の千川通りから小石川台地へ上る「堀坂」だ。もともと坂の北側に旗本堀氏の屋敷があり、二代目当主堀利尚の名乗り「宮内」から「宮内坂」と呼ばれていた。その後坂は当地の地主鎌田源三の名前をとって「源三坂」と変ったものの、文政年間にこの坂を修理した堀内蔵助という人物が道ばたに「ほりさか」という石標を建立したことで、「堀坂」の名前が固定したという。その石標も現存しているらしい(66-67頁)。江戸の人の坂道に対する執着を示す代表的な挿話だろう。
ところで江戸では坂に名前が付けられ、人びとに愛された。外国にもそうした慣習はあるのだろうか。通りの名前に様々な由来があることは知っているけれど、坂道固有の名前というものはあるのかしらん。そもそも「坂」という日本独自の言葉に対応する言葉はあるのか。たとえば英語では「slope」らしいが、どうもそれではたんなる傾斜という雰囲気で、訳語としての情緒にとぼしい。
いま読んでいる須賀敦子さんのエッセイに引用されたイタリアの詩人の詩篇中に、「多くの悲しみがあり、/空と町並のうつくしいトリエステには/「山の通り」という坂道がある。/……坂の片側には、忘れられた/墓地がある。葬式の絶えてない墓地。」という一節を見つけた。
原文がわからないから何とも言えないが、これなどは「山の通り」という道路の名前がたまたま山に向かって伸びており、その傾斜(坂道)もそう呼ばれているにすぎないと言えそうで、しかしながら道の片側にある「忘れられた墓地」の存在と不即不離に存在し、坂道であることを主張する名前であるのかもしれない。
わたしが知らないだけなのだろうけれど、いったい外国の都市に「坂道」(日本の○○坂といった意味での)はあるのだろうか?